辺民小考

世の中の片隅に生きていますが少しは考えることもあります ― 辺民小考

8月15日 ― 「終戦」か「敗戦」か

 昨日は8月15日だった。新聞を見ると「終戦」という言葉と「敗戦」という言葉があった。78年前のこの日に戦争が終わった、そしてそれは敗れた戦争だったという事実に基づいた記事だ。「終戦」も「敗戦」も事実だが、終わったことに重点を置くのか、敗れたことを強調するのかの違いがある。

 

 世の中では8月15日を「終戦記念日」または「終戦の日」と呼ぶのが一般的なようだ。「敗戦の日」と呼ぶ人はほとんどいないだろうと思って検索してみると、れいわ新選組がこの言葉を使って声明を出していた。

 

 8月15日の各政党の声明・談話は次の通り。
  自由民主党        「終戦記念日にあたって 党声明」
  立憲民主党        「【代表談話】78年目の終戦の日を迎えて」
  日本維新の会    「【戦没者を追悼し平和を祈念する日】にあたって」(代表談話)
  公明党        「終戦記念日 党アピール 世界の平和、安全維持に貢献。対話による政党外交を実践」
  日本共産党        「終戦記念日にあたって」(書記局長談話)
  国民民主党        「戦後78年の終戦の日にあたって(談話)」
  れいわ新選組    「【声明】78回目の敗戦の日を迎えて」
  社会民主党        「敗戦78年にあたって(声明)」
  NHKから国民を守る党    「終戦記念日を迎えて【談話】」

 

 「終戦記念日」としているのが自民・公明・共産・N国、「終戦の日」は立民・国民、「敗戦の日」(または「敗戦」)がれいわ・社民。維新は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としているが、これは1982年4月13日の閣議決定より毎年の8月15日を期日として設けられた日の正式名称だ(厚生労働省のHPに閣議決定の文書が掲載されている)。
 この言葉遣いの違いだけで政党の考え方を決めつけるわけにはいかないが、れいわと社民が敗戦したことを強調しているのはやはり目立つ。また、維新がことさら政府が決めた正式名称を使っているのも、私には維新の国家主義的な性格を表しているように思われて興味深かった。立民と国民が、意図的かどうかは分からないが、記念日という言葉を避けて「終戦の日」としていることは心情的にわかるような気がした。

 

 私にも「終戦記念日」というのは「記念日」という言葉にちょっと抵抗感がある。暗く悲惨な戦争に関連して「記念日」という、お祝いすべき日によく使われる言葉を用いることへの違和感だ。例えば、8月6日は広島「原爆の日」と呼ばれるのが普通だが、これを「原爆記念日」とは言いたくない。記念日にあたる英語は「anniversary」または「memorial day」だと思うが、どちらも良いことにも悪いことにも使うらしい。「anniversary」は毎年巡ってくる日という意味で、「memorial day」は記憶にとどめておくべき日といった感じかな。しかし外来語として日本語になった「アニバーサリー」はどうしてもお祝い事の雰囲気が漂っている。「記念日」を「memorial day」の翻訳語だと考えられれば違和感は生じないのだが。因みに、日本記念日協会では「終戦の日」の方を採用している。
 しかし、戦争が終わったということを明るく平和な時代が始まる起点だと考えれば、お祝いしてもいい。「終戦記念日」という人はこちらのイメージなのかもしれない。あるいは、そもそも私と違って「記念日」にお祝いの匂いを感じないのかもしれないな。

 

 それでは、単に戦争が終わったと捉えるのと戦争に負けたと捉えるのではどちらがいいのだろう。私は、どちらかと言えばれいわや社民に親近感を感じる人間ではあるが、結論から言うと単に「戦争が終わった」と捉える方が適切だと思った。
 78年前のことなので、当時のことを実感として覚えている人は80歳以上に限られる。大多数の日本人にとっては自分が生まれてもいない過去のことだ。もちろん、過去の歴史的事実をどう評価するかは非常に大事なことだが、これは戦争そのものの評価ではなく、戦争状態から戦争がなくなった状態への変化の捉えかたの問題だ。それは戦争の評価とは別のこと。当時の人々がどう感じたのだろうという視点で決めた方がよいと思った。あくまで想像するしかないが、今までに読んだ本の記述などから想像すると、大多数の人々はようやく戦争が終わってほっとした・助かったという思いだったように思う。負けて悔しい・こん畜生などと思った人は少数だったのではないか。その時に外地にいた人はほっとしたどころか、助かるため・生き延びるために逃げなければならなかったし、それは負けたからだと思ったことだろう。その人たちを無視するわけにはいかないが、終戦時の人口約7,200万人のうち外地にいた人は約660万だということを考えれば、国民の大多数は負けたということよりも終わったということの方が重要だっただろうと思う。こう考えて、「戦争が終わった」と捉える方がよいと結論した。

 

 実は、この終戦か敗戦かということは非常に重大かつ難しい問題だと思う。終戦を重視すれば、たとえ敗れたとしても戦争が終わることが重要という立場に立つことになるし、敗戦を重視すれば、敗れることで耐え難い結果を引き受けるくらいなら戦争を続ける方がよいという立場に立つことになる。こう考えたのは、現在世界でもっとも大きな戦争であるウクライナ戦争のことを思い浮かべたからだ。ロシアにウクライナ南部・東部を不法占拠されたままでも人が死に続ける状態を止める方がよいのか、人が死に続けてもウクライナからロシアを追い出すまで戦い続けるべきなのか。そのどちらかを主張する人がそれぞれ沢山いるが、どちらがよいか私はにわかに答えることが出来ない。