辺民小考

世の中の片隅に生きていますが少しは考えることもあります ― 辺民小考

「無知は罪」か?

 ある人の話を聞いていると「無知は罪」といいう言葉が出てきた。正直に白状すると、無知な私はこの言葉が有名であることを知らなかった。ソクラテスの言葉だという。この言葉には続きがあって、「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」というのが全体らしい。ソクラテスと言えば、「無知の知」ということは知っていたので、「知は空虚なり」はこれとの関連で何となくわかるような気もする。しかし、「英知持つもの英雄なり」というのはわからない。いろいろな説明があるようだが、出来れば自分なりに考えてみたい。と言っても、全部は荷が重いので、今回は「無知は罪なり」だけ。しかも、ソクラテスがどういう意図で言っているのかは別にして、現在の日本で日本語として使われている「無知は罪」という言葉について考えたい。

 

 まず、「無知は罪」を、「成功するには知識がないとダメですよ」と言いたいために引用している人がかなりいて驚いた。それって、「無知は損」ってことでしょ。これは論外。それから、「無知は罪」を宗教的に考えることも(それに意味がないとは思わないが)、今の私の関心ではない。社会的な意味で「無知は罪」ということを考える。

 

 「無知」とは「知らないこと」だ。知らないことは罪なのか? 「無知は罪」という言葉は強いか弱いかは別にして非難の意図をもって使われていると思う。しかし、少なくとも私は、人が何かを知らないというだけでその人を非難したい気にはならない。そう考えると、「無知は罪」という言葉は、「知らないこと」を責めているのではなく、「知ろうとしないこと」を難じている言葉なのではないかと思った。

 

 それでは、知ろうとしないことは罪か? 知ろうとしたり知ろうとしなかったりは、その人の自由であるはずだ。人には自由に行動する権利がある。但し、他人に迷惑を掛けない限り(法律ではよく「公共の福祉に反しない限り」とか書いてある)。従って、人が知ろうとしないことが他人の迷惑になるという場合にのみ、それが非難に値すること(=罪)になるのだ。それはどんな場合だろう。


 人が法律やルールやマナーを知らない場合には何らの悪意もなく人に迷惑をかけてしまうことが起こる。この場合、知らなかったことは言い訳に過ぎず、知ろうとしなかったことは非難されるべきだろう。すぐに思い浮かぶのは何かをしたことによる迷惑だが、何かをすべきなのにしなかったことによる迷惑だってある。また、迷惑をかけるのが特定の人ではなく、人の集団としての社会という場合も考えられる。

 

 ここまで来てようやく、冒頭に書いた「ある人」が「無知は罪」と言っていたのは、社会的な問題についてだったことに繋がった。
 社会的な問題とは、大多数の人や弱い立場の人が困った状態にあったりそうなりそうな状態にあったりすることだ。特に大多数の人が困ることは、本来なら困らないようにしたいと大多数の人が考えて何かをしたり何かをしなかったりするはずだ(少数の弱い立場の人が困ることについては倫理観があればそうなる)。しかし、自分も含まれる大多数の困りごとについて、無関心で何もせず、むしろ困りごとを作り出すものの手助けをしたりする人がいる。そういう人が沢山いると、困りごとはなかなかなくならない。何故、そういう人がいるのか? それは、困った状態にあることやそれを作り出すものについて知らないし、知ろうとしないからだ。という風に考えて、「無知は罪」(知ろうとしないことは罪)という言い方が出てくるのだろう。

 

 ここで私は、社会的な問題について「知ろうとしないことは罪」と非難する前に、人々は何故知ろうとしないのかを考えてみたくなった。
 一般的に言って、人が何かをするためには、そのことをする「意思」と、そのことが出来る「能力」と、そのことをするための「資源」(重要な資源はお金と時間)が必要だ。人が知ろうとしないのは、知ることについての「意思」、「能力」、「資源」のうちの1つか2つか全部が欠けているからだろう。

 

 遠い昔は、社会を支配する人たちは、支配される人たちを知る能力を持たない状態に置いて来た(例えば文字を読めない人が大多数だったりした)。また、知るためには今よりずっと多くの資源(お金と時間)が必要だったが、支配される人たちはその資源をほとんど持っていなかった。しかし、現在では大多数の人が知るための能力を持っているし、知るために必要なお金がないということもないだろう。従って、人が知ろうとしないのは、知る意思がないか知ることに割ける時間がないということだ。時間については、たしかに皆んな忙しくしていて充分な時間がないということは分かる。しかし、自由にできる時間が全くないわけではなく、多くの人が残った自由な時間も社会に目を向けさせない娯楽などに使っている(使わされている)のではないだろうか。なので、全く時間がないということはないと思う。だから、最大の原因は知る意思がないということだろう。

 

 多くの人々が、自分にも影響が及んでいる社会的な事柄について知る気(意思)がない、というのは何故だろうか。それはこういう理由だと、言うことは私にはできない。しかし、多くの人々がそうなるように仕向けられている気がしてならない。そう考えると、知る気(意思)がない人に対して、知ろうとしないことは罪(「無知は罪」)と非難することが出来るだろうか。

 

 現在のことを念頭に書いてきたが、このことを考えると、日本のほぼ全員が耐え難い苦難に見舞われた戦争のことを思わざるを得ない。敗戦のあと、多くの人が「知らなかった」、「騙されていた」と言い合ったという。その人たちを「知ろうとしなかった」と非難できるだろうか。戦前の社会は、いろんな仕組みで人々が知ろうとしないようになっていたように思う。そして、今また同じような状況になってきているのではないかと思ってしまった。