辺民小考

世の中の片隅に生きていますが少しは考えることもあります ― 辺民小考

日本国憲法を読んで自分なりに考えた(第4回:第一章 天皇(その2)、第三条~第七条)

 第4回は「第一章 天皇」のうち、「第三条~第七条(天皇の行為に関する規定)」について考えたことを書きます。

 

==== 第一章 天皇 == 第三条~第七条 ================
〔内閣の助言と承認及び責任〕
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

天皇の権能と権能行使の委任〕
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

〔摂政〕
第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

天皇の任命行為〕
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

天皇の国事行為〕
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
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<第三条>
〔内閣の助言と承認及び責任〕
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 この条文を読んでまず思ったのは、「天皇の行うすべての行為」とせずに、「国事に関する行為」に限定したのは何故かということだ。もちろん、まったく限定なく「すべての行為」とすれば、天皇の日常生活にも「内閣の助言と承認が必要」となってしまうので限定する必要があるのは明らかだ。しかし、例えば「この憲法の定めるすべての行為」することも出来たはずだと思った。何故そうしないのか。そこで、憲法の定める天皇の行為を列挙してみた。

 ①法律の定めるところによる国事に関する行為の委任(第四条第二項)
 ②国会の指名に基く内閣総理大臣の任命(第六条第一項)
 ③内閣の指名に基く最高裁判所長官の任命(第六条第二項)
 ④国事に関する行為(第七条)
 ⑤憲法改正の公布(第九十六条第二項)

 

 第三条で「内閣の助言と承認が必要」とされている天皇の行為を「国事に関する行為」と限定することは、④以外を除いていると考えられる。このうち③は「内閣の指名に基く」行為だから、わざわざ「内閣の助言と承認が必要」としなくてよいだろう。②と⑤は国会が決めたことの実行であるから、ここに「内閣の助言と承認」を介在させることは三権分立の理念からよくないと思い、除外されていることに納得した。①については、事情はちょっと複雑だ。法律は国会が作るので、その法律に従った委任に「内閣の助言と承認」を求めない方がよいということか。しかし、法律の適用に当たってはその妥当性の判断が必要で、その判断を内閣と無関係に天皇に一任してよいかという問題がある。そこで、憲法第四条第二項に基づいて作られた「国事行為の臨時代行に関する法律」をチェックしてみた。すると、天皇は「内閣の助言と承認により」委任できると規定していることが分かった。①は憲法では「内閣の助言と承認」の対象から除外されているが、それを法律で補っているわけだ。

 これで、ようやく第三条が「国事に関する行為」に限定して「内閣の助言と承認が必要」としていることを、(私流に)理解できた。

 

 天皇の国事に関する行為は、「内閣の助言と承認を必要」とするのであるから「内閣が、その責任を負ふ」として天皇の免責をいうのは当然のことだろう。免責についてはその通りだが、承認については考えるべきことがあると思った。それは承認のタイミングだ。天皇が国事に関する行為を行う場合に、その内容について事前に承認していても、その内容に反することを天皇が行ったら(言わば天皇の内閣に対する反逆)どうなるか。国事に関する行為は天皇がそれを行っただけで有効になると考えると、困ったことになる。従って、内閣の承認は事前だけでなく事後にも行われることが必要で、事後の内閣の承認によって初めて、天皇の国事に関する行為が有効になると考えなければならない、と私は思った。
 しかし、法律家も含めて、天皇の反逆を全く想定していないので、事後承認により国事に関する行為を有効化ということは考えられていないようだ。もしかしたら、通常は事後承認という行為を行わなくても、天皇が反逆した場合は事後的に否認(承認しない)と宣言することによって、天皇の国事に関する行為を無効化できるということなのかもしれない。

 

<第四条>
天皇の権能と権能行使の委任〕
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

 

 第1項は天皇が国の政治(国政)に関して何の権限も能力もない(権能を有しない)と述べた非常に重要な条文だと思う。これによって、「国事に関する行為」も天皇の権限ではなく、形式的・儀礼的な行為に過ぎないことが分かる。しかし、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」と書いているのは納得できない。第三条のところに書いたように、憲法の定める天皇の行為は「国事に関する行為」だけではない。ここは、「国事に関する」を削除した方がよいと思う。「天皇は、この憲法の定める行為のみを行ひ」でいいではないか。何故、「国事に関する行為のみ」と限定しているのかは、私には分からなかった。

 

 この第四条第一項により、天皇は政治的な行為を禁じられている、と言われるが、そのことはよく考える必要があると思う。天皇も一人の人間であるからいろいろと私的な行動を行うのは当然だ。私的な行動でも人の目に触れれば注目されることが多い。これは各界の有名人でも私的行動が注目されることがあるので、超有名人の天皇のが注目されるのは当たり前だろう。問題は、どう考えても私的活動とは思えない活動が多く存在することだ。公的な活動は、憲法の定める行為にとどまらない。宮内庁のHPにも「国事行為などのご公務」として、国事行為以外の公務について書かれているし、各種行事への参加など多くの公的活動も行っている。これらの、憲法の定める行為ではない公的活動をどう考えるべきか。

 

 天皇の公的活動を考えるために、私は大会社の社長のことを考えてみた。社長にもその地位としての活動と、その地位とは別の個人としての活動がある。社長のその地位にあるものとしての活動は公的活動だが、個人として社会に影響を与える公的な活動を行うこともあることに気付いた(例えば、個人として行われる慈善団体や学術研究への多額の寄付や、会社とは無関係の団体の役員を務めることなど)。要は、人はその地位とは別に個人として公的活動を行うことがあるということだ。だから、天皇に関して私的行為か公的行為かが問題なのではなく、天皇という地位による行為なのか、地位とは関係ない個人的な行為なのかが問題だろう。こう考えて、第四条は天皇という地位による行為について定めていて、地位とは関係ない個人的な行為に制限を加えているのではないという解釈に達した(そう考えないと、天皇憲法の定める行為ではない公的活動は違憲だという結論になる。)

 

 それでは何故、宮内庁のHPに天皇という地位による行為ではない(と私が考えた)「憲法の定める行為ではない」行為が書かれているのだろう。それを考えるため、もう一度、社長の例を考える。社長の場合、その地位としての活動と個人としての活動は何によって分かれるのだろう。私の答えは、その活動の費用がどこから出ているかだ。費用が会社から出ているとすれば、それは社長という地位による活動だし、個人が払っているなら個人としての活動だと言えるだろう。では天皇の場合は? 天皇の場合は、会社の社長と違い、天皇という地位による活動(社長が会社のために行うのに対して、天皇は国または国民のために行う)に対する費用が国から支払われるだけでなく、天皇の生活費や個人として行う活動の費用も国から払われている。しかも、天皇の生活費を支出するだけでなく、日常生活も含めてその活動のすべて(個人的活動も含めて)を国の組織(宮内庁)が支えてる。こういう事情があるため、宮内庁天皇(及び皇族)の個人的な公的行為もその職務内容として捉えているのだろうと解釈した。

 

 宮内庁の予算は、皇室費宮内庁費に分かれ、さらに皇室費内廷費皇族費宮廷費の三つに分けられている。このうち、内廷費天皇家(及び上皇家)の個人的費用に充てられるのは明らかだが、宮廷費が問題だ。宮廷費には「憲法の定める行為ではない」公的活動の経費が含まている。これでは、費用の面で、天皇という地位による活動(これは第四条第一項により「憲法の定める行為」に限られる)と天皇という地位によらない個人的な公的活動を分離できない。そのため、天皇という地位によらない個人的な公的活動が、その地位による活動であるかのように扱われてしまっている。「憲法の定める行為ではない」活動も天皇という地位による活動だとするなら、それは明確に憲法に違反するだろう。
 天皇の公務は厳格に憲法の定める行為に限り、それ以外はすべて私的行為とすることが必要だと、私は思う。この観点から、宮廷費は例えば「天皇公務費」としてその用途を絞り、削った費用はすべて内廷費とすべきだろう。

 

 ここまで考えて、ようやく「天皇の政治的な行為」について考えることができるようになった。天皇の地位による行為は第四条第一項により「憲法の定める行為」に限定されているのだから、それ以外の行為はすべて天皇の地位によらない行為(すなわち個人的な行為)と考えるべきだ。個人的な行為は法律に違反しない限り一般人と同様になんでもできると考えた方がよい(但し、憲法第八条に規定する財産授受は例外)、と私は思う。従って、天皇がたとえ「憲法の定める行為」以外の政治的な行為を行ったとしても、それが天皇の地位による行為であっても(もちろん憲法に違反するが)「国政に関する権能を有しない」のであるから政治的な影響力はないし、それが個人的な行為であればなおさら何の政治的な影響力ないはずだ。もちろん、そのような行為は天皇という立場にあるものとしてふさわしくないという批判は当然あるだろう。それは、例えば最高裁判所長官が公人としてであれ個人としてであれ、政治的な行為を行った時に批判されるのと同じことだ。

 

 問題は、天皇が政治的な行為を行うことではなく、天皇には「国政に関する権能を有しない」にも拘わらず、影響を及ぼすかのようにとらえることだ。しかし、憲法の規定にも拘わらず国民の多くが天皇の権限(または権威)を過大に考えてしまっているため、現実的には天皇の行為が社会に大きな影響を及ぼしてしまうだろう。その意味で、天皇の個人としての政治的な行為は、禁じられていないとしても、現状では、そうした行為が行われないように(政府が天皇に政治的な行為を行わせようとしないように)社会的圧力を加え続けなければならない。将来、国民の多くが天皇の権限を正確に認識するようになれば、「天皇は政治的な行為を禁じられている」という言い方は不要になるだろう。

 

 さらに進めて、私は天皇が政治的発言をすることも本来は禁止すべきことではないと思う。天皇には政治的権限は何もないのだから、その発言内容に対して妥当性を欠くと思えば自由に批判すればいいし、もっともだと思えば賛同すればいい。問題は、天皇の意見が一般的な国民の意見より価値があるようにとらえることにある。実は、これは天皇に限らず、本来何の権限もないことについて、経済団体や、学者や、タレントや、インフルエンサーと呼ばれる人たちが述べる意見に関しても同じことが言える。色々な人が知らない情報や知識を与えてくれることを有難く思い尊重べきだとは思うが、それらの情報や知識から出される意見については自分で是非を考える必要があると思う。

 

 次に、第四条第二項について考える。この項は、天皇の国事に関する行為の委任について述べたものだが、それが天皇の行為として定められていることに違和感を感じた。天皇の国事に関する行為を天皇以外の人間が行うことについては、この項の規定の他に第五条の摂政についての規定があるが、摂政を置くことは天皇の行為としては書かれていない。この項の内容は、「委任」という本人が行う行為を表す言葉ではなく、他者が行う行為として使える「代行させる/する」という言葉を使って書くこともできたと思う。例えば、「天皇の国事に関する行為は、法律の定めるところにより、代行させることができる」のように。あるいは、第五条の摂政についての規定が、摂政を置くことができることを前提として書かれているのと同様に、代行させることができることを前提とするならば、「天皇の国事に関する行為を代行する者を置くときは、法律の定めるところによる」とでも書けただろうと思う。

 

 では何故、天皇の国事に関する行為の代行を置くことについて、それを天皇の行為としたのだろうか。いろいろ考えた結果、私が想像したのは次のような理由である。摂政については、大日本帝国憲法にも規定があり旧皇室典範で「天皇未タ成年ニ達セサルトキ」と「天皇久キニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」に摂政を置くことが定められている。これを見ると、摂政を置くのは天皇が責任を持った正常な判断ができないと考えられるときであることが分かる。一方、天皇の代行については、大日本帝国憲法にはその規定がなく、それを一種の不備(天皇が一時的にその役割を果たせなくなる場合に困る)とみなして、日本憲法にその規定を作ろうしたのだと思う。そして、その場合は摂政を置く場合と違って、天皇が正常な判断ができなくなっているわけではないので、代行を天皇の主体的行為として位置付けてしまったのではないか。もし私の想像が当たっているなら、これは天皇の意思の有無を憲法に持ち込むことであり、天皇は「国政に関する権能を有しない」という第一項の規定にそぐわないと思う。これは、大日本帝国憲法天皇主権という考え方の残滓ではないだろうか。

 

 第三条の解釈に関して、憲法第四条第二項に基づいて作られた「国事行為の臨時代行に関する法律」で、天皇は「内閣の助言と承認により」委任できると規定していることを書いたが、憲法の下位にある法律にこの規定を入れざるを得なかったのは、天皇の国事に関する行為の代行を置くことを天皇の委任行為としたからだ。憲法の下位にある法律で、憲法の規定に制限を加えるような法構成になっているのは、すっきりとした美しい構成ではないと私には思われる。大日本帝国憲法の残滓を引きずったことの悪影響(の一つ)だと考える。

 

 なお、国事行為の臨時代行は天皇の外国旅行や病気療養に際して度々行われてる。大日本帝国憲法下で天皇の外国旅行の例がないのは、時代の違いによりその必要性がなかったのかもしれないが、大日本帝国憲法に代行の規定がないためかもしれないと思った。昭和天皇は皇太子時代の1921(大正10)年に英国を始めヨーロッパ五か国を訪問している。同じ年に当時皇太子であった昭和天皇大正天皇の摂政に就いているが、それは3月3日から9月3日までの外国訪問のあとの、11月25日のことである。この順序関係も、天皇に代わって権力を行使する摂政への就任後には外国旅行ができないためであるように思う。
 こう考えると、日本国憲法天皇の代行の規定を設けたことは良かったと思う(代行を委任の規定としたことはダメだが)。

 

<第五条>
〔摂政〕
第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

 

 この条文で私が奇妙に思ったのは、摂政を置くことができることが直接的には憲法に書かれていないにもかかわらず、それが前提になっていることだ。摂政を置く場合があることは、大日本帝国憲法やそれ以前の日本の歴史を踏まえれば当然と認識されたのだろう。しかし、そんな場合も、法律(憲法はその最上位のもの)の建付けとしてはそれが可能であることを明記すべきであるように思う。これも、大日本帝国憲法の存在を引きずっているのかもしれない。

 

<第六条>
天皇の任命行為〕
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 

 この条文では、天皇の行為のうち二つの任命行為を規定している。この任命行為を第七条の天皇の国事行為から外していることの解釈については、第三条のところに書いた。それ以外に考えたことは、何故この二つの任命だけを特別にここに取り出している(国務大臣他の官吏の任命は国事行為として第七条に規定している)のかということだ。私が考えたのは以下。

 

 三権(立法、行政、司法)の長については特別な権威付けが必要と考え、その権威付けを国事行為とは別の天皇の任命行為としたのではないか。天皇を権威付けに使う発想が全くなければ、そもそも「国政に関する権能を有しない」天皇など必要がなかったはずであるが、そのことは別にして、ここでは、立法府の長たる衆議院議長および参議院議長が天皇の任命行為の対象になっていないことについて考えた。立法府を構成する国会議員は、主権者である国民から直接選ばれた者であり、議長はその代表者である。その議長を天皇によって権威付けするのは、主権在民の観点からさすがにマズイと考えられたということではないかと思った。

 

 第六条に関しては、全く別のことも考えた。それは、最高裁判所の長たる裁判官(最高裁長官)を内閣が指名することが、ここに間接的に書かれている以外に規定がないことだ(これは内閣総理大臣の指名について明確に規定があることと著しい違いだと思う)。最高裁判所の裁判官の任命について規定した第七十九条では、わざわざ長官を除いて、「その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する」と書かれている。これは、長官の任命を天皇の行為としたために内閣の任命から外したわけだが、これとは別に、内閣が長官を指名するということを直接的に書いた条文があるべきだと私は思った。

 

<第七条>
天皇の国事行為〕
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。

 

 この条文で規定れている国事行為は、「国政に関する権能を有しない」天皇にその内容をを決定する権限がないことは明らかだ。従って、これは別途決定された内容を有効化するための手続きだと考えられる。それでは、その内容を決定する権限は誰にあるのか。第七条に関しては、これが非常に重要なポイントだ。一般的に、法律上の行為について、その手続きだけを法律に定めて、その行為を行う権限について定めないということはあり得ないと私は思う。法律上の権限を行使するためには、その根拠となる法律が必要だ。このことは法律の一つである憲法についても同じだ。

 

 天皇の国事行為について、それが内閣の助言と承認により行われるとしても、この条文が別途決定された内容を有効化するための手続きに過ぎないことを考えると、この条文を根拠として内閣がその内容を決定する権限を持つと考えるのは間違っていると、私は思う。この条文以外に憲法や法律が定める規定に従って決定された内容だけを天皇の国事行為として実行できると考えるのは当然の解釈だろう。

 

 ところが、第七条の三に「衆議院を解散すること」があることを理由として、いわゆる七条解散が内閣の長である総理大臣の権限であるかのようにしてしまっている現状がある。これは、私にはペテンであり法治国家にあるまじきことだと思われる。衆議院の解散については、第六十九条に「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」の内閣の選択肢の一つとして規定されているだけだ。従って、衆議院の解散はこの場合に限られると考えるべきだ、と私は考える。

 

 七条解散について、学者の間でも議論があることや、1952年の解散時に当時の野党も七条解散を容認する態度をとってそれ以降七条解散が定着してしまったことも承知しているが、それでも現在改めて七条解散を否定することは大きな意味があると考える。なお、七条解散について争われた裁判で、最高裁が「高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にある」として違憲審査を避けたことは、この国の司法が行政権に対して有効な牽制機能を果たしていないと言わざるを得ない(しかし、この判決が合憲判断をせずに違憲審査を避けたということは、裁判官が法律的には違憲だと認識したことを示唆していると私は思う)。