戦争はいつ終わったのか?
8月15日のことを考えた時に、別の記事に書いた「終戦」か「敗戦」かということの他に、戦争はこの日に終わったと言っていいのだろうかとも思った。
あの戦争についてはある程度の知識を持っていると思っていたが、ネットを使ってあれこれと調べてみると知らなかったことが沢山あったので、検索しては読み、読んではそこに出てきてことについてまた検索するということを繰り返すことになった。その過程で色んなことを考えながら。
あの戦争について書くことは難しい。ものの見方が書く人の思想や政治的な立場により大きく異なり、論争になっていることが多いからだ。私は私の見方で書けばいいし、またそうするしかないのだが、学術論争ならまだしも、ネットに反乱する不毛な言い争い(たたき合い)にうんざりしているので、使われている言葉や文章の断片に過敏に反応して思考停止に陥り感情的になる人がいるような、そんな言葉や言い方はなるべく避けたいと思った。
戦争の呼び名からして、第二次世界大戦、太平洋戦争、十五年戦争、大東亜戦争など色んな名称があり、過敏な反応を呼ぶ言葉になってしまっている。「あの戦争」と書いたのは、そんな事情からだ。しかし、そんなことを沢山の言葉について行うのはまず無理だし、言葉を選ぶためにやたらと時間がかかるので、言葉に拘ることはやめることにした。また、歴史的な事実だけを書いてそれに対するコメントはなるべく避けようかとも考えたが、そもそも取り上げる事実と取り上げない事実の選別が色濃く私のものの見方を反映することに気付いて、書き方についてもあまり気にしないことにした。
前置き(言い訳?)が長すぎた。元々プログを始めたのが考えたことを書くということだったので仕方ないと自分を慰めて、本題に入ろう。
●8月15日の何が戦争を終わらせることになったのか
8月15日の「玉音放送」により戦争が終わったというのは本当だろうか。この放送については、今まで「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び・・・」など一部分しか知らなかったので、全文を読んでみることにした。読んでみると、国民に知らせたことは「政府に命じてアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4国に対してポツダム宣言の受諾を通告させた」(帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり)ということだけであり、あとはその理由と自分の思いをかなり長く述べたあとで、国民に対して、軽挙妄動を戒めるとか、日本の続くことを信じて全力を未来の建設に傾けて世界に遅れないように心がけよとか言って、最後に自分の思いに従えと命じている文章だった。かなり難しい言い回しが多く、これをラジオの放送で聞いてその意味をすべて理解できたのは国民の少数であったのではないかと思った。しかし、天皇の録音盤再生のあとNHKアナウンサーによる解説と同じ文章の再読もあったようなので、細かいところは別にして少なくともポツダム宣言を受諾した(戦争に負けた)ことは人から人への伝聞も含めてかなり広く伝わったようだ。
この放送は前日(8月14日)に発布された詔書(終戦の詔書)をそのまま読み上げたものだった。これはポツダム宣言の受諾を国民に伝えた内容だけで、詔書に軍に対する停戦命令が全くないことに初めは驚いた。しかし、天皇は大日本帝国憲法において陸海軍を統帥すると定められているものの、実務的には天皇が直接軍に対する命令を発するのではなく、天皇の意を受けた軍の統帥機関が命令を出すことになっていた。戦時中は大本営が設置され、これが最高統帥機関として陸軍および海軍に対して命令を出していたということが分かって納得した。
実際、大本営は8月14日の詔書発布を受けた最初の命令を8月15日に大陸命第1381号と大海令第47号として陸軍と海軍に出していた。しかしそれは「各軍は別に命令する迄各々その現任務を続行すべし 但し積極進攻作戦を中止すべし」(大陸命第1381号)や「何分の令ある迄対米英蘇支積極進攻作戦は之を見合はすべし」(大海令第47号)というものであり、即時停戦・降伏し武装解除に応じるように命令するものではなかった。その後、8月16日以降に次々と条件付きや対象地域を除外した停戦命令が出され、最終的には8月22日に至ってようやく全軍に対して8月25日0時以降一切の武力行使を停止することが命令された。先に書いたように、外地ではこれ以降も様々な事情により戦闘が継続したところもあったが、少なくとも本土では8月25日以降日本軍の抵抗を受ける恐れがなくなったと連合国軍は考えたようだ(本土では8月15日を最後に連合国軍からの攻撃は停止されて戦闘はなくなっていたが、その後も上陸進駐すれば交戦になる可能性があると連合国軍は考えていたらしい)。この結果、8月27日から連合国軍の日本進駐が開始されることになった。
このようなことを踏まえると、時間はかかったものの少なくとも本土では8月14日の証書(それが8月15日に放送された)が起点となって戦闘終結に至ったことが理解できた。
最後に残ったのは、なぜ連合国軍は日本国内向けであるポツダム宣言受諾の放送が行われた8月15日をもって日本本土への攻撃を停止したのかということだ。これは、日本政府内でのポツダム宣言受諾に関する協議から8月15日に至る経緯を知ることにより理解できる。
・8月6日の広島への原爆投下と、8月9日のソ連宣戦布告と満洲国や樺太への侵攻および長崎への原爆投下を受けて、8月10日0時過ぎから開かれた御前会議でポツダム宣言受諾について議論された。この会議では、天皇の地位の保障のみを条件してポツダム宣言を受諾すべしとする主張と、受諾には多数の条件を付けて条件が拒否されたら本土決戦をするべきという主張に別れて紛糾したが、天皇が和平を望んでいることを口にしたことにより議論が受諾に収束したということになっている。この時の天皇の決断については、その意図を原爆投下を受けて国民のこれ以上の被害を避けようとしたという説と、ソ連の参戦・侵攻を受けて日本の共産化による身の危険を避けようとしたという説があるが、ここではその是非を論じない。この御前会議に引き続き3時から行われた閣議で政府としてポツダム宣言の受諾を決定した。
・8月10日午前8時に日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、海外向けのラジオの国営放送を通じ日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知した。この時点では、日本政府により正式にポツダム宣言受諾の意思があることが表明されたものの、日本軍や一般市民に対してはそのことは伏せられていて、軍に対する停戦命令も出されていなかった。
・8月12日午前0時過ぎに連合国は、連合国を代表するものとしてアメリカのバーンズ国務長官による日本のポツダム宣言受託への正式な返答(「バーンズ回答」)を行った。この回答にあった天皇の地位に関する記述の解釈について外務省と軍部で対立が起こり、この日は日本の対応が決まらなった。
・8月13日に2回に渡って行われた政府と軍の最高戦争指導会議で、国体護持をめぐり議論が紛糾したが、最後にはポツダム宣言の即時受諾が優勢となった。しかし連合国では、「バーンズ回答」から1日以上経っても日本政府からの正式な回答がなく、また日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見ていた。
・8月14日午前11時より行われた御前会議で、陸軍側が戦争継続を主張したが、天皇の判断により最終的にポツダム宣言の受諾が決定されるとともに、天皇によるラジオ放送を行うことも決められた。これを受けて、「終戦の詔書」が用意され、夕方には閣僚および天皇による署名が行われた。またスイス公使を通じて、ポツダム宣言受諾に関する正式な詔書を発布した旨が連合国側に伝えられた。しかし連合国は、未だ日本国民や軍に向けての通達が行われないままであることから、軍の戦闘体制は崩さぬままであった。
・8月15日に正午から「玉音放送」が行われ、これを受けて連合国の本土への攻撃が停止された。
これをひとことで言えば、連合国はポツダム宣言受諾の連絡を受けても全面的には信用せず、それが国民に伝えられて初めて完全に了解されたということだ。このように考えて初めて、「玉音放送」によって日本本土での戦闘がようやく終了したということが理解できた。
●8月15日は本当に戦争の終わりか
ここまで書いてきたことは、国としての戦争の終わりをどう考えるかということだ。しかし、それだけでいいのか。重要なのは国ではなく人々ではないのか。それぞれの人にとってはその人の戦争の終わりがあるのだろう。ここまで書いてきたことの中でも、戦闘の終わりが人々がいた場所によって異なるということがあった。しかし、人々にとっては戦闘の終わりが戦争の終わりではない。
戦闘が終わった後で、人々はあるいは犯罪人として裁判にかけられ、あるいはシベリアに抑留され、あるいは命からがら日本に引き揚げ、あるいは外国に残って一生を終えた。日本に帰ってきた人もある人は手を失いまたある人は足を失ってその後を暮らさねばならなかった。国内にいた人も、あるいは家を失い肉親を失った状態から再起を図らねばならなかった。また、原爆の被害者になった人々は長く長く苦しまねばならなかった。沖縄では長く米軍の支配を受けねばならなかったし、現在でも広大な軍事基地に囲まれて人々が暮らしている。人々にとって戦争は悲惨な記憶を含めて死ぬまで終わらないものかもしれない。いや戦争を経験した人が死んでも、その子孫の人達のありようへの影響を考えると、人々にとって戦争はずっと終わらないものだとも思われる。
No More War! Don't go to WAR!