辺民小考

世の中の片隅に生きていますが少しは考えることもあります ― 辺民小考

日本国憲法を読んで自分なりに考えた(第3回:第一章 天皇(その1)、第一条~第二条)

 第3回から日本国憲法の本文を考えてゆく。先ずは「第一章 天皇」です。この章は第1条から第八条まであるが、考えることが多いので複数回に分ける。どう分けるか。内容の関連性から次の3つに分けるのがよいと思った。

 1.第一条~第二条 天皇の地位に関する規定
 2.第三条~第七条 天皇の行為に関する規定
 3.第八条     皇室の財産に関する規定

 今回はこのうちの「第一条~第二条(天皇の地位に関する規定)」について考えたことを書きます。

 

==== 第一章 天皇 == 第一条~第二条 ================
天皇の地位と主権在民
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

皇位世襲
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
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<第一条>
天皇の地位と主権在民
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

 第一条には次の3つのことが書いてある。
 (1)天皇は「日本国の象徴」である
 (2)天皇は「日本国民統合の象徴」である
 (3)天皇の地位は日本国民の総意に基く
 
 まず、(1)を考える。一般的に国家の象徴と考えられるのは国旗、国章、国歌などであるが、その対象が人の場合は対外的に国を代表する「元首」であると考えるのが妥当だろうと思う。天皇が元首であるかどうかは学説でも政治家の間でも議論があることは承知しているが、それは元首の定義の問題だ。天皇は、憲法の規定に基づき、対外的及び国内的な政治的役割を持っていることは明らかであり、少なくとも対外的な役割は他の国の元首が持つのと同じ役割であるものが含まれる(例えば第七条の九に規定される「外国の大使及び公使を接受すること」)。元首が対外的にあるいは国内的にどういう権限を持ち、どういう機能を果たすかは国によって様々であり、日本の天皇は、君主が儀礼上の存在となっている立憲君主制国家(例えばオランダ、ノルウェーデンマークなど)の元首(国王・女王)に近いと思う。近いだけで同じではないが。

 

 以上のように、私は天皇を一種の「元首」と考えたが、そう考えるかどうかは実はどうでもよい。重要なことは、天皇憲法で規定される役割を実行するだけの存在であると考え、その規定を厳密に適用してみだりに拡大することのないようにすることだろうと思った。

 

 また、元首に近いと思った関連で、以下のようなことも考えた。日本を立憲君主国と呼び天皇を君主と考えるのは、日本国憲法下の天皇大日本帝国憲法時代の天皇とは全く違っているため、著しい違和感がある。ところが、国政において対外的にも国内的にも一定の役割りを果たしているので、そのことを無視できない。国のありようと天皇の果たしている役割が、世界的に見て独特であると考えて、国内的には使う言葉をユニークなものにしている。王国でも共和国でもないので正式国名を単に「日本」とするのは英語に翻訳しても「Japan」となり困らないが、「天皇」は英語では「Emperor」(すなわち「皇帝」)とするしかない。「王族」や「王室外交」と呼ばず「皇室」や「皇室外交」と呼んでも、英語で「Imperial family」や「Imperial diplomacy」となるので、外国から見れば、皇帝がいる国と認識されているだろう。
 
 日本国憲法下の日本では、天皇は歴史的には各国にあった「皇帝」とは全く違った存在であるが、かつての皇帝に対するかのような振舞い(言葉使い、態度など)をかなり多くに国民が行うことに、私は違和感を感じている。天皇(や皇族)をその地位にあるが故に尊敬することは私にはできない。私は人をその地位ではなく、その行いによって尊敬したりしなかったりするべきだと思っている。(余談になるが・・・。国の象徴である国旗や国歌には一般的には敬意を払うべきだと思うが、今の日本の国旗や国歌が大日本帝国憲法時代から継続したものであるため、私は素直に敬意を払うことができない。)

 

 (2)は考えても意味が分からなかった。国民統合とは国民を一つのまとまりにすることなので、「日本国民統合」の意味は分かる。分からないのは、それの「象徴」ということだ。理解するヒントがあるかと思って、ネットで解説を探してみたが納得のできる説明は見つからなかった。但し、ある論考(『「象徴」の由来および普及をめぐって』)で、戦前の日本でも天皇を「国民統合の象徴」と捉える天皇観があったことを知って考えたことはある。


 戦前の日本においては、天皇を「国民統合の象徴」と捉えるのは、強いられたものであったにせよ国民の実態を表すものとして結構当たっていたのではないかと思った。私は、今の日本を念頭において「日本国民統合の象徴」を分からないと言ったが、日本国憲法制定当時には天皇に対する国民の意識は戦前からのものが広範に残っていて、当時の実態を踏まえた表現かもしれない。その意味では、(2)は戦前の残滓であるような気がした。

 

 (3)については、こんなことを考えてしまう。天皇の地位は日本国民の総意に基くということは、もし国民の過半数天皇なんていらないと思えば無くなるものだと言っているように読める。しかも、国民の総意は例えば国民投票で示すこともできるので、憲法改正しなくても可能であろう。しかし、現在の憲法のままで天皇を無くしたら、憲法で規定している天皇の役割は誰も果たせなくなってしまう。ということは、やっぱり天皇制廃止は憲法改正するしか方法がないようだ。

 

<第二条>
皇位世襲
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 

 第二条に書いてあることは2つ。
 (1)天皇の地位(皇位)は世襲とする
 (2)皇位の継承は皇室典範の定める内容によって行う
  ・皇室典範は国会の議決によって作る

 

 (1)については、「世襲」の意味が気になった。辞書には、「嫡系の子孫が代々うけつぐこと」(広辞苑)、「子孫が代々受け継ぐこと」(大辞林)、「祖父・父から子や孫へと受け継ぐこと」(新明解)などと書いてある。この3つを見ても、嫡系に限定してあるかどうかや、継承者を子や孫に限定するか広く子孫とするか、について違いがある。また、世襲と言われる制度は天皇だけでなく、江戸時代の将軍や大名から商家や伝統芸能まで沢山あり、商家や伝統芸能などではその制度が現在まで続いている(「世襲議員」なんて使い方もある)。それらの世襲制度では、血縁での継承を基本にしつつも養子や娘婿への継承も広く行われて来た。世襲される家や家業がよりよく継承されるために、むしろ血縁より継承する者の適性・能力を重んじているよう思える場合も多い。「世襲」という言葉は、このように非常に幅広い意味でつかわれている。憲法は法律の一つなので、一般的な国語的意味でなく法的な解釈が必要である。しかし、「世襲」という言葉は現在の法律では多分憲法以外にないので、裁判で解釈が争われたこともなく、専門家の間で共通に理解された法的解釈はないだろうと思う。


 また、この条文で規定しているのは皇位の継承についてなので、天皇以外の世襲については関係ないとも言える。では、皇位世襲について法的に確定した解釈があるかと言えば、ないと思う。現状での皇位世襲の内容は、(2)で規定されている皇室典範で決められている。しかし、皇室典範は、憲法の「世襲」の法的解釈が許容する範囲で制定されるものであり、皇室典範の規定が憲法の「世襲」の法的解釈ではない。歴史上の皇位継承を調べても、また帝国憲法での皇位継承規定を見ても、現在の憲法での世襲の意味は決められないし、決めるべきではないと思う。何故なら、日本国憲法は過去の天皇制を否定して作られたものであるからだ。それでも日本の「伝統」を踏まえて解釈すべきという人もいる。しかし、伝統と言っても時代によって皇位継承の在り方は変わってきている。「伝統」を言う人は、自分が解釈したい内容の例を過去の中に探しているに過ぎないように私には思われる。

 

 あれこれ考えた結果、私はかなり極端な思いに至った。日本国憲法主権在民の理念を徹底させる方法は、(1)の「世襲」を養子を排除しないものと解釈し、皇室典範を改正して養子の規定を設け、しかもその養子は天皇の血統でなくてもよいとすることだ、と思った。これは、実質的に天皇制を廃止することになるが、憲法上の天皇の役割りはすべて問題なく行えるので、憲法改正せずに実行できる。天皇制廃止を考える人も、多分こんな方法は考えていないだろうが。

 

 (2)については意味は明確だ。なので、思いは(2)の条文解釈ではなく皇室典範の方に向かう。皇室典範の条文というより、皇室典範で規定されている皇位継承のについての議論だ。一番大きい論点は、女性天皇を認めるかどうか。これについての私の意見は明確だ、憲法の理念から考えて男女同権は当たり前なので、当然、女性天皇を認めるべきだと思う。


 (1)に関して最後に書いた、皇室典範で養子を認めて実質的に天皇制を廃止する、ということは現状でそれを求めるということではない。将来、もし国民の大多数が天皇制廃止を求めるようになるなら、そんな方法もあるかもしれないということに過ぎない。但し、皇位継承の安定性(皇位継承が出来なくなれば憲法で規定する天皇の役割りが実行できなくなるのでこれは憲法改正しない限り絶対に必要)を考えれば、皇統の範囲内で養子を認めることは行ってもいいと思った。

 

図書館の貸出サービスと「街の本屋さん」について

 新聞に「図書館の人気本所蔵どこまで 自民議連「書店支援」提言 国が議論へ」という記事が出ていた。図書館はよく利用するし、本を読むのは好きな方なので興味を持って読んだ。記事は、議連の提言を受けて、経営が厳しい書店を支援するために公立図書館での本の購入にルールが必要か国が議論を始めるとして、図書館の貸し出しの実態をレポートししていた。特に、図書館が利用者が多い本を複数所蔵することについて、実情が詳しく書かれていた。

 

議員連盟の提言のうち図書館に関するもの
 ネットで、議員連盟(「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟」)が出した提言というのを探したが、報道記事は沢山あるものの提言そのものは見つからなかった。しかし、議員連盟が昨年11月2日に開いた総会の様子を報じた記事(全国書店新聞令和4年12月1日号)に、議連で検討する主要テーマや書店側の要望が書かれてたので、提言の内容は大体類推できた。テーマや要望はいろいろあって、他に気になることもあるが、ここでは図書館に関することだけ書く。

 

 議連の齋藤健幹事長が挙げた主要テーマのうちの一つに「②公共図書館問題(ベストセラーの過度な複数蔵書、著者権利の保護)」があり、書店側の要望の一つに「③書店と図書館共存・共栄のための環境整備」があった。要望の③については、もう少し詳しく、次のように書かれていた。

 

   ③書店と図書館共存・共栄のための環境整備では、永年出版界と図書館界での
  懸案となっている「複本」や「新刊本の貸出不可期間」について一定のルールを
  設ける必要がある、原稿図書館法第7条の2にある「公立図書館の設置及び
  運営上の望ましい基準」を書店との共存も含めた内容に改正する必要がある、
  「図書館蔵書等における地元書店からの優先購入」等の措置が不可欠

 

 これを読むと、書店との関係で図書館について問題視しているのは、(a)過度な複数蔵書(「複本」)、(b)新刊本をすぐに貸し出していること、(c)本の購入先、であることが分かる。しかし、(c)について本の購入先を地元書店優先にして欲しいということ以外は、(a)も(b)も図書館のサービスによって直接的に影響を受ける(販売部数が減る)のは出版社であり、販売部数が増えてもそれが中小の地元書店の販売につながるかは疑問だと思った。

 

 この疑問をきっかけにして、いろいろと考えることになった。

 

●図書館の貸出サービスについて
 本の著者や出版社が、図書館の貸出を売上減少の要因の一つとして批判する気持ちは分かる。書店も図書館の貸出を本が売れない原因の一つと考えていつことも理解できる。しかし、そもそも図書館の貸出サービスは悪なのだろうか。いや、もっと根本的に、物の貸出ということから考えてみたい。

 

 世の中ではいろんな物が売られている。そして、その物を買った人は自由に人に貸したりできる。個人間の貸し借りだけでなく、いろんな物のレンタルサービスだってある。ではなぜ、本の貸出が問題になるのか。これは本が著作物だからです。著作権の一部に貸与権があり、著作権者が「貸与により公衆に提供する権利」を持っているのです。従って、著作権者の許可なく本の貸出は出来ないはず。しかし、これには例外があり、著作権法には「営利を目的とせず」「料金を受けない場合には」「貸与により公衆に提供することができる」と定められています。図書館の貸出サービスはまさにこのケースに当てはまるため、法律的には問題はありません。

 

 なぜ、無料で公衆に提供する場合は自由にできるようにしているのか。著作権という考え方の中にその理由があると思います。著作権は、著作権の対象となっている著作物(「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」)並びに「実演、レコード、放送及び有線放送」が、人類の文化的な成果物であり、文化の発展を助けるためには、著作物を創作する者(著作権者)の保護が必要だという考えに基づいています。しかし、文化の発展を助けるためには、それらの成果物が広く利用されることも必要です。そのため、「著作権者の保護」と「著作物等の利用」との間のバランスをとる必要がある。著作権法は、著作権者の許可なく利用できる範囲を定めて、そのバランスをとっているわけです。

 しかし、そのバランスのとり方は不変ではなく、時代とともに変化して来ています。実際、著作権法貸与権というものが定められたのは1984年になってから(1980年頃から急成長したレンタルレコード業が著作者等へ大きな経済的影響を与えたことを受けての法改正)で、その時には書籍・雑誌の貸与には、当分の間、貸与権は適用しないものとされました。その後、2002年頃からマンガ喫茶やレンタル店によるコミック本の大量流通が問題になって、2004年6月の著作権法改正で書籍・雑誌についても貸与権が適用されるようになったという経緯があります。
 この経緯を見てもわかるように、「著作権者の保護」と「著作物等の利用」との間のバランスは、著作権者と著作物を流通させる業界の圧力によって、だんだんと「著作権者の保護」を強める方向に移ってきているように思われます。これまでは、有料での貸出(レンタル業)への著作権者側の権利拡大でしたが、今後、無料での貸出にまで権利拡大が及ぶかもしれません(非営利無料の貸出でも映画については既に著作権法著作権者の許可が必要になっています)。著作権法を改正しなくても、図書館の貸出を有料化すれば著作権者の許可が必要になるので、出版業界はその方向で圧力を強める可能性もあります。

 

 今回、図書館の貸出サービスが、業界→自民党→政府での検討、という流れて俎上に上がったので、放っておくと業界の利益だけが優先されかねません。一方、図書館組織や広範な市民からの反発も予想されますが、出版文化を維持発展させるために必要なことを考えるのは重要なことなので、やみくもに反対すればいいとは思いません。このことについて、今日考えた範囲での私の意見は以下です。

 

 ・図書館の貸出サービスの有料化には反対
  (これは公共サービスは無料であるべきという私の原則的思いによる。
   税金でカバーすべきものと受益者負担すべきものの考え方については、
   機会があれば別途書きます。)
 ・図書館の貸出について著作権者側に対価を払うことは検討の余地がある
  但し、出版文化を維持発展させるため考えるべきであって、
  充分儲かっている人・業者をより儲けさせる必要はなく、
  苦しい状態で出版している人・業者を支援する仕組みであるべき
  (具体的には、図書館で購入した1冊目についてのみ対価を払うのがよいかな)

 

●図書館の貸出サービスが出版業界に与える影響
 図書館の貸出サービスにより、出版業界はどのくらい被害(売上の減少)を受けているのだろう。この判断はなかなか難しい。ネットで検索して、いくつかの記事や論評や論文を読んでみたが、正直言ってよく分からない。なので、以下はそれからから私が受けた印象に過ぎないが、思ったことを書いてみる。

 

 まず、思ったのは、立場の違いによって言っていることがかなり違うということ。図書館関係の人は、「図書館の貸出が出版の売上に与える影響はほとんどない」といい、出版関係の人は「図書館の貸出が出版の売上に影響している」と言ってる。どちらも、それそれデータを分析しているが、図書館関係の人は書籍全体についてかなり詳細に分析しているのに対して、出版関係の人は書籍全体の分析は大雑把で、それよりも特定の種類の本(売れ筋の本)に着目して分析する傾向が強いと感じた。これは、図書館は多くの人に読まれる小説などだけでなく学術書なども含めて書籍のことを考えているが、出版側は多量に販売している大手出版社の声が大きく彼らの売上を支える種類の本に関心が高いからだろう(専門書を出す中小出版社は別の意見があるかもしれないが声が小さい)と思った。
 また、論文ではなく雑誌や新聞の記事では出版側の言い分を取り上げて補足的に図書館側の事情を書くといったものがほとんどだったが、これは雑誌や新聞(特に新聞)は出版物の広告に大きく依存しているためだろうと想像した。

 

 こういう事情を踏まえた上で、私が一番状況をつかみやすいと思ったのは、「図書館の所蔵又は貸出が出版物の売上に与える影響に関する研究動向」という論文(研究レビュー)だった。この論文(一部他の論文も)から私が理解したことは以下。
→参照先 https://current.ndl.go.jp/ca2038

 

  1.出版(書籍・雑誌)の販売金額は1996年をピークに以降減少が続いている
    (2021年はピークの45%しかない。販売部数で見ると、落ち込みはもっと
     大きく、2021はピークの1995年の29%しかない。)
  2.図書館の貸出冊数は2011年度まで一貫して増加し、以降は若干減少傾向にある
  3.図書館の年間受入冊数は2013年以降減少傾向にあり、館数が増えてきている
    ので、1館当たりではかなり明確に減少している
    (これは、図書館予算が1998年度をピークとして2011年度までほぼ毎年減少
     したあと横ばいになっているが、1冊当たりの価格が上昇しているため)
  4.公共図書館の貸出冊数と書籍販売(冊数、金額)の間にはほぼ相関がない
    (書籍全体についての話)
  5.文芸書ベストセラー・エンターテイメント系小説に限れば、公共図書館
    蔵書数が多い(貸出数が多い)と、新刊書籍の売上部数を減少させる
  6.経済状況の悪化は公共図書館の利用を増加させる

 

 このうち、5は私の図書館利用からも実感している。私の利用する図書館ではベストセラー小説は在庫が複数あるのが普通だが、いつも順番待ちが多数発生していて1年待ちはざらにある。それだけ、買わずに借りて読む人が多いということだ。一方、新聞の書評に載った本でも少し学術的な内容の本は、図書館で買ってくれないことも多く、購入してくれた場合は比較的すぐに借りられる。

 

●書籍の販売ルートと「街の本屋さん」への影響(本はどこで買うのか)
 人気のある本(=売れ筋の本)については、図書館の貸出サービスの影響で販売部数が減っていることは分かった。それで、図書館の貸出がなければ売れるはずだった本は、どこで買われるはずだったのか。それを考えないと「街の本屋さん」に影響があるかどうか分からない。なんで、街の本屋なのか。自民党の議連が「街の本屋さんを元気にして・・・」となってたからです。

※図書館で借りられないなら買わないという人もいるが、書店の販売減少を考えるには借りられなかったら買う人だけを対象にすればよい

 

 まず、書籍の販売ルートを考えてみる。自分で考えるよりネットで調べる方が早い。出版科学研究所のサイトに「日本の出版流通の特徴と主な流通ルート」という記事があったのでこれを使う。
https://shuppankagaku.com/knowledge/market_route/
 主な流通ルートとして7つのルートが挙げられているが、考えたいのは「図書館の貸出がなければ売れるはずだった本」のことだから、図書館が買う「図書館ルート」と図書館では借りない「教科書ルート」は関係ない。それに、問題は読者がどこで買うかなので、途中の流通業者(取次、即売業者、専門取次、代理店)はありなしを含めてまとめて書くと次の5ルートになる。

 

   〇取次・書店ルート
    出版社→(取次)→→→→→→→ 書店 →読者

   〇CVSルート
    出版社→(取次、即売業者)→コンビニ→読者
   〇ネット書店・宅配ルート
    出版社→(取次ありなし)→ネット書店→読者
   〇生協ルート
    出版社→(取次、専門取次)→ 生協 →読者
   〇直販ルート
    出版社→→→→→→→→→→→→→→→→→→読者
    出版社→(代理店ありなし)→ 書店 →読者

 

 これを、本をどこから買うかという観点で見ると、①書店、②コンビニ、②生協、④ネット書店、⑤出版社の5つ。それに、新本じゃなく中古を買う人もいるから⑥中古品購入(店舗・ネット店・メルカリ等)が加わる。「街の本屋」はもちろん書店だから、「街の本屋」に影響があるかどうかは、図書館の貸出がなければ①書店で買っただろう人のことだけ考えればよい。そんなことは初めから分かっているのに②~⑥まで書いたのは、本の購入ルートが書店以外に沢山あることをはっきりさせたかったからです。問題にしているのは売れ筋の本なので、そういう本はほぼ雑誌しか置いていない②コンビニを除いてどこでも買えるだろう。

 

 そこで、一般的に書籍はどこで買われるのかを調べた。またネット検索。するとこんなデータが見つかった。

 これは、15歳から69歳の男女5,000人を対象に、書籍を購入したことがある場所を聞いた複数回答可)アンケート調査の結果だが、一般的な傾向を知るのには充分だろう。私の予想に反して、「街中などの書店」が最も多い(私はオンライン書店が一番多いと予想していた)。

 今は図書館で借りられれば借りるが、借りられなかったから本を買う人のことを考えているので、図書館で借りる人はお金の節約傾向が強いと思われることや、売れ筋の本(人気のある本)に限れば読めるまで長く待つことを厭わない人であることを考慮すると、一般的な傾向より⑥中古品購入(店舗・ネット店・メルカリ等)が多いと想像される。しかし、このデータを見るとそれでも「街中などの書店」が最も多いことには変わりなさそうだ。

 

 ここまでくると、人気のある本(=売れ筋の本)については、図書館の貸出サービスが「街中などの書店」の販売にかなり影響しているだろう、と私にも思われた。但し、都会に住む人にとっては「街中などの書店」というのはジュンク堂紀伊國屋などの大型書店が含まれていて(むしろそちらが多そう)、「街の本屋さん」という言葉でイメージされる中小書店とはかなり異なると考える方がよいと思った。
自民党の議連が「街の本屋さんを元気にして・・・」と名乗るのは、やろうとしていることが中小書店に限らずむしろ大きな書店に大きなメリットがあるのに、中小書店支援であるように思わせるイメージ戦略のような気がする。

 

 「街の本屋さん」を中小書店と考えるとそれらの書店は、もともと大型書店やネット書店やコンビニの雑誌販売に売り上げを奪われて経営が苦しくなり、数が少なくなってきている。そのことを前提にすれば、図書館の貸出が「街の本屋さん」に与える影響は、ある程度大きいとしてもそれが経営を左右する主要因ではない、と私は考えます。

 

●なぜ、中小書店がつぶれることを問題にするのか
 時代の変化により、過去には沢山売れていたものが需要減少(や消失)によりほとんど(または全く)売れなくなったり、販売ルートの変化により買われる場所が変わったりすることはきりがないほど多く存在する。それによってつぶれていった(つぶれてゆく)中小小売店は非常に多い。特に、買われる場所が大型店やチェーン店に変化することによる中小小売店の淘汰は激しいものがある(私はこれを必ずしも良しとしないが、政府は大型店規制を緩めるなどしてむしろそれを促進してきたと思う)。

 

 では、書店だけなぜつぶれることを問題にするのか? 書店が販売する書籍や雑誌などが文化の発展や社会の情報流通に必要不可欠なものであるからだ。しかし、それは直ちに中小書店がつぶれることを問題にする理由にはならない。なぜなら、その不可欠なものを守るためには書籍や雑誌が出版され、どんなルートであろうときちんと販売ルートが確保されていればいいのだから(必ずしも中小書店で販売される必要はない)。

 

 中小書店がつぶれるのが問題なのは、2つの場合しかないように思う。一つは、地方で中小書店しかなく、それがなくなるとコンビニの雑誌を除くとネット書店か出版社に直接連絡して買うしかなくなるが、それに慣れていない高齢者のことを考える場合(この場合は、買わなくても読めればいいのであればむしろ公共図書館の貸出サービスが助けになる)。もう一つは、中小書店が多様な書籍から住民が関心のある書籍を選ぶのに役立っている場合だ。中小書店は売り場が狭いので沢山の本を置いて住民が幅広く選べるようにすることはできない。従ってこれは、ある特定の分野の本や特定の傾向の本を店主が選んで並べている特色のある書店の場合だけだろう。


 ネットに慣れていない高齢者などに対しては、そのために中小書店を残すことを考えるより、ネットの導入も含めてその使い方を教える公共サービスを充実させる方がはるかに有益だと思う。
 
●街の本屋の未来を考える
 中小書店のこれからの存在意義は、ある特定の分野の本や特定の傾向の本を店主が選んで並べている特色のある書店であることに移ってゆくだろうと私は考えた。そういう書店の問題は、店舗の狭さから多くの本を並べられないことと、分野や傾向を絞っているため充分な販売量を確保するには広い商圏が必要なことだ。これら2つの問題を解決するには、店舗に本を並べることに加えて(あるいは店舗を持たずに)ネット上で店主の選んだ本を並べて販売することだろう。
 従って、それらの中小書店を支援するには、ネットでそのような販売が簡単にできるようなプラットフォームを用意したり、それらの中小ネット本屋を幅広く案内する仕組みが必要だと思う。これらの支援こそ、国や地方の公共団体が行うべきことだろう。

 

中国が日本産水産物の輸入を全面停止したことについて考える

 8月24日に、福島からトリチウムなどの放射性物質を含む処理水の海洋放出が始まった。これを受けて、中国は即日、日本産水産物の輸入を全面停止する措置を取った。これに対して、日本政府は中国のこの措置を強く非難した。一方、処理水の海洋放出については、野党などから日本政府を批判する声が上がっている。この政府批判に対する批判をする人も現れている。これらのことについて、わからないことを調べながら、自分なりに考えてみたい。

 

●処理水とはどういうものか?
 福島第一原子力発電所では事故後、放射性物質を含む「汚染水」が発生し続けているので、その汚染水から有害な放射性物質を出来るだけ取り除く処理をしている。その処理された水が「処理水」だ。

 

 そもそも何故、事故後12年以上も経ってもなお、「汚染水」が発生し続けているのか。汚染水は、原子炉内で溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)やそこから原子炉建屋内に放出される放射性物質に触れることにより汚染された水だ。そのような水はなぜ生じるのか。大きく分けて2つの要因がある。
  (1)原子炉内の燃料デブリを冷やすため水を注入していること
  (2)原子炉建屋内に流れ込む地下水や雨水があること

 

 もともと、原子力発電は核燃料から発生する熱で水を沸かして蒸気を作り、その蒸気の力でタービンを回して電気を起こす仕組みなので、原子炉と発電機の間で水を循環させている。その水は非常に高いレベルの放射性物質で汚染されているが、循環させることでその水が外部に出ないようになっている。水を循環させるために、発電機のタービンを回したあとの蒸気を冷却水(海水)で冷やして水に戻しているので、冷却水も放射性物質で汚染されるがその汚染レベルは低く抑えられている。そのため、冷却水として使うため海から取り込んだ水は、使ったあと海に放出していた。これが通常運転の状態だ。
 ところが、福島第一原発では、東日本大震災とそれに伴う津波により、最高レベル(レベル7)の事故が起こり、原子炉の核燃料が原子炉圧力容器の底に落ちる炉心溶融メルトダウン)、さらに圧力容器の外側の原子炉格納容器にまで漏れ出した(メルトスルー)。また、メルトダウンの影響で水素が大量発生して水素爆発を起こし、原子炉建屋および周辺施設が大破した。核燃料は事故後も非常に大きい熱を出し続けるので、これを冷やさないとまた水蒸気爆発などが起こり広範囲に高レベル放射性物質がまき散らされることになる。従って(1)は必須です。

 

 (2)については、建屋が壊れているので雨水が入ってくることは容易に想像できるが、地下水が大きな問題であることは、私は今回調べてみて初めて知りました。実は、福島第一原発の敷地はもともと海抜35mの台地で地下水の豊富なところだったが、その台地を掘り下げて発電所を建設したため、建設当初から地下水の処理が大きな課題でした。原発完成後も、建屋への地下水の流入を防ぐため、建屋の周囲に立て坑を60本近く掘り、事故前も1日800tを超える地下水をくみ上げて海に流していたようです(建屋への流入前に汲み上げているので、これはほとんど汚染されていない)。事故直後は、立て坑が放射性物質が付着したがれきで埋まったため、建屋地下には1日400tの地下水が流入して、核燃料を冷やした後の高濃度汚染水と混じり多量の汚染水が発生していたようです。
→(参考)東京新聞の2013年9月の記事 https://www.tokyo-np.co.jp/article/236982

 

 事故のあと、国と東電は10年以上に渡って、(1)による高濃度汚染水を浄化後に再び冷却に使うことにより循環させたり、(2)の地下水流入を防ぐために建屋の前(陸側)に壁(凍土壁)を作り、地下水をくみ上げる井戸(サブドレン)も作ったりして、出来るだけ発生する汚染水を減らす努力をしてきました。しかし、地下水の流入を完全に止めることは出来ず、現在でも1日130t程度の汚染水が発生しています。東電の資料(2021年6月25日付「福島第一原子力発電所の汚染水処理対策の状況」)を見ると、130tのうち8割近く(約100t)は建屋に流入している地下水(雨水は少ないと想定)によるものであることが分かります。だから、地下水が最大の問題なのです。このようにして発生した汚染水は、当然そのまま海に流すことはできないので、海側に遮水壁を作って敷地から出ないようにしています。

 

 毎日外から流入した水で汚染水が発生しそれを外に出せないとしたら、敷地内にはどんどん汚染水が貯まっていきます。発生したままの汚染水は非常に危険なので、そこに含まれる放射性物質を多核種除去設備(ALPS)で出来るだけ除去処理した上で、敷地内のタンクに保存しています。「処理水」(ALPS処理水)というのはこのタンクに溜められた水のことです(発生する汚染水1日130tにALPS浄化時薬液10tが注入されるため「処理水」の発生量は1日140tになります)。構内に設置されたタンクは約1000基ある(その容量は137万t)が、すでにその9割に「処理水」が貯まっています。その結果、敷地内に同じ方法でこのまま溜め続けることが出来なくなってきているので、別の解決方法を考える必要があります。ここまでは、誰もが認めざるを得ない事実だと思います。

 

 汚染水には多くの種類(核種)の放射性物質が含まれているが、ALPSではそのうち62核種を対象として除去処理を行っている。この62核種は、処理後の水が環境へ漏えいした場合の人間への放射線被ばくのリスクを考えて、汚染水に含まれる核種の推定濃度が国の基準(告示濃度限度)に対し 1/100 を超える核種が選ばれている(1/100という値は選んだ核種をすべて1/100以下にした場合に、選ばなかった核種を含めても全体として基準を満たすだろうという考えによる)。ただし、ここで一つ例外があり、トリチウム(普通の水素に中性子が2つ加わった放射性物質)だけは対象から外されている。これは、トリチウムが水分子の一部になって存在して除去が困難であるためであるが、その結果、ALPS処理水に含まれるトリチウムは国の基準を超えている状態のまま残っている。実際、東電の資料(2018年10月1日付「多核種除去設備等処理水の性状について」)を見ると、トリチウムを除く核種の合計は基準値を下回っているが、トリチウムは基準値を超えていることが分かる。これが、国や東電も報道機関もトリチウムにこだわって処理水のことを語っている理由だ。

 

 処理水はトリチウムを別にしても放射性物質を完全に取り除いているわけではない(それは不可能だ)。国や東電が「処理水」と言っているのは、処理された水という意味では正しい表現だが、トリチウムを含めて放射性物質がまだ残っている(すなわち汚染されている)という意味で「汚染水」と呼ぶことも可能だ。そのため、国や東電の言うことを受け入れている人は「処理水」と呼び、国や東電を批判する人は「汚染水」と呼ぶという言葉の違いが生じている。

 

 また、現在敷地内のタンクに保管されている水は、トリチウム以外の放射性物質も国の基準値を超えて残っているものが多い(約7割)という事実がある。これは、「ALPSの運用当初は、処理水が規制基準を満たすことよりも、敷地内の放射物質濃度の低減を優先して処理していたため」だ(東電の「処理水ポータルサイト」の「Q&A」による)。この「処理途上水」は今後再浄化処理を行って「トリチウム以外の放射性物質が規制基準を満たすまで取り除く」と東電は書いているが、こうした事実もあって、国や東電を批判する人が「汚染水」と呼ぶ理由の一つになっている。
 なお、これらのことを踏まえて、国(資源エネルギー庁)は2021年4月に、タンクに保管されている水全部をALPS処理水と呼ぶことをやめ、「トリチウム以外の核種について、環境放出の際の規制基準を満たす水のみをALPS処理水と呼称する」として、ALPS処理水の定義を変更しました。
https://www.meti.go.jp/press/2021/04/20210413001/20210413001.html

 

 さらに、国や東電を批判する一部の人は、東電が発表しているALPS処理後の水の放射性物質の値を疑っていたりする。それにはそれなりの理由があるらしいのだが、その真偽を確かめるのは大変だし、さすがに東電も公表する数値をごまかすところまではやらないだろうと思うので、私はそこまで疑うことはしない。
 

●処理水の海洋放出について
 溜まり続ける処理水の処分方法については、「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会(ALPS小委員会)」で2016年11月から3年以上に渡って検討が行われ、2020年2月に45ページの報告書が公表された。その報告書を詳細に読み込むことは私の能力を超えるが、飛ばし飛ばし読んでみた範囲で理解した内容などを以下に書いてみたい

→報告書 https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/018_00_01.pdf

 

 実は、処理水の処分方法については、ALPS小委員会より前に、「汚染水処理対策委員会」の下に設置された「トリチウム水タスクフォース」で2013年12月から検討が行われていて、2016年6月に報告書を取りまとめている。ALPS小委員会では「トリチウム水タスクフォース」のこの報告書を踏まえて検討を行っている。
→タスクフォース報告書 https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/tritium_tusk/pdf/160603_01.pdf

 

 「トリチウム水タスクフォース」では、トリチウム水の処分方法(「長期的な取扱い方法」と呼んでいる)として次の5つの方法を選び、前処理なし、希釈、同位体分離と組み合わせることで得られる以下の11の選択肢に整理して、各方法について評価を行っていた。

 

  ・地層注入(前処理なし/希釈後/分離後)
   ※圧縮機を利用し、深い地層中(深度2,500m)に注入する
  ・海洋放出(希釈後/分離後)
   ※海洋に放出する
  ・水蒸気放出(前処理なし/希釈後/分離後)
   ※蒸発処理し、高温水蒸気として、排気筒から大気に放出する
  ・水素放出(前処理なし/分離後))
   ※電気分解によって水素に還元し、大気に放出する。
  ・地下埋設(前処理なし)
   ※セメント系等の固形化材を混ぜ、コンクリートピット等の区画内に埋設する

 

 評価項目としては、基本要件として技術的成立性と規制成立性(既存の規制との関係)をあげ、制約となりうる条件として期間、コスト、その他(処分に必要な面積、二次廃棄物、作業員被ばく、他)をあげていた。タスクフォースは、技術的な評価を行うことを目的としていた(報告書には「関係者間の意見調整や選択肢の一本化を行うものではない」と書かれている)ため、5つの方法のどれにすべきかといった結論は出していない。また、タスクフォースの名前からはわかるように、放射性物質としてはトリチウムのみを念頭に置いて検討されたこと(報告書には「トリチウム以外の核種は多核種除去設備等により別途除去されることを前提としている」と書かれている)にも、注意する必要があるかもしれないと思った。

 

 ALPS小委員会の報告書では、先ず「トリチウム水タスクフォース」での検討結果を簡単にまとめたあと、処理水の処分方法の検討の前に、タンク保管容量の拡大について(敷地外への移送・保管及び敷地の拡大を含む)およびタンク保管の継続可能性について検討を行っている。そして、保管容量の拡大はいずれの方法も(可能だとしても)「相当な時間を要する」などとして排除し、タンク保管を長期間に渡って継続してゆくことは困難であることを示唆している。タンク保管の継続可能性の検討の前提として、処理水の処分は廃炉作業の一環であり、30年~40年後と想定される廃炉作業の完了までに処理水の処分を終える必要があることをあげている。

 

 この点については、海洋放出に反対する国際環境NGOグリーンピースなどは、(燃料デブリの取り出しなど遅々として進まない廃炉作業と切り離して考えれば)「福島第一原発の敷地内にも近隣地域にも、汚染水を長期的に保管するための十分なスペースがあります」と言って批判している。しかし、仮に廃炉作業を止めたとしても、汚染水を長期的にタンク保管することは遅かれ早かれできなくなると思うので、私はこの批判には賛同しない。

 

 ALPS小委員会の報告書は、このあと処理水の処分方法の検討をしている。私が驚いたのは、検討の初めに「風評への影響に配慮した検討を行うことが重要である」と述べ、風評への影響についても書かれていることだ。例えば、「処分の開始時期と風評への影響について」として、次のような記述もある。

   処分の開始時期が遅ければ遅い方が世の中の関心が小さくなり報道量も減り、
  風評への影響は少なくなる。また、報道機関を含め国民のトリチウムに関する
  理解が進むことが期待される。一方、処分が行われると新たな事象としての
  報道のインパクトは大きいので、処分を行う時期の検討が必要である。
 
   また、商業活動における売上高等においては、事故による経済的被害が
  残存しており売上高等が落ち込んでいる状況と復興が進み売上高等が
  戻りつつある状況では、処分時の売上高等の落ち幅は後者のほうが大きく
  なると考えられるが、後者のほうが事業者の体力が回復しており、
  風評による影響に耐えうることが期待される。

 

 しかし、処分方法を絞り込むにあたっては、結局のところ技術的な面に限定しているように思える。報告書最後の「まとめ」から引用すると以下。

 

   タスクフォースで検討された 5 つの処分方法のうち、地層注入については、
  適した用地を探す必要があり、モニタリング手法も確立されていない。
  水素放出については、前処理やスケール拡大等について、更なる技術開発が
  必要となる可能性がある。地下埋設については、固化時にトリチウムを含む
  水分が蒸発することや新たな規制設定が必要となる可能性、処分場の確保の
  必要がある。こうした課題をクリアするために必要な期間を見通すことは難しく、
  時間的な制約も考慮する必要があることから、地層注入、水素放出、地下埋設
  については、規制的、技術的、時間的な観点から現実的な選択肢としては
  課題が多く、技術的には、実績のある水蒸気放出及び海洋放出が現実的な
  選択肢である。

 

 このように書いて、処理水の処分方法を「水蒸気放出」と「海洋放出」の2つに絞り込んでいる。さらに、次のように書いているので、海洋放出の方を暗に推奨しているように私には思われた。

 

   水蒸気放出は、処分量は異なるが、事故炉で放射性物質を含む水蒸気の放出が
  行われた前例があり、通常炉でも、放出管理の基準値の設定はないものの、
  換気を行う際に管理された形で、放射性物質を含んだ水蒸気の放出を行っている。
  また、液体放射性廃棄物の処分を目的とし、液体の状態から気体の状態に
  蒸発させ、水蒸気放出を行った例は国内にはないことなどが留意点として
  あげられる。また、水蒸気放出では、ALPS 処理水に含まれるいくつかの核種は
  放出されず乾固して残ることが予想され、環境に放出する核種を減らせるが、
  残渣が放射性廃棄物となり残ることにも留意が必要である。

 

   海洋放出について、国内外の原子力施設において、トリチウムを含む
  液体放射性廃棄物が冷却用の海水等により希釈され、海洋等へ放出されている。
  これまでの通常炉で行われてきているという実績や放出設備の取扱いの容易さ、
  モニタリングのあり方も含めて、水蒸気放出に比べると、確実に実施できると
  考えられる。ただし、排水量トリチウム放出量の量的な関係は、
  福島第一原発の事故前と同等にはならないことが留意点としてあげられる。

 

 ここで、専門家が技術的に検討していることの是非を私が判断することは困難なので、ALPS小委員会の検討の詳細には踏み込まない。専門家でない一般人としては、もっと大括りに問題を捉えた方がよいと思う。そういう観点で私が考えたことを以下に書く。

 

 そもそも処理水の中に存在する放射性物質は、人工的に消滅させることはできない(物理研究者が行っているような巨大な実験設備を使って核分裂反応を起こすことは可能であるが、そんな方法を処理水に適用できるわけではないし、出来たとしても新たな放射性物質が生まれる可能性が高い)。多核種除去設備(ALPS)で除去しているというのは、放射性物質を消滅させているいるわけではなく、沈殿処理や吸着材による吸着などで水から分離しているに過ぎない(沈殿物や吸着材の中に放射性廃棄物として残る)。従って、放射性物質は自然に崩壊を起こして別の物質に変化するするのを待つしかない。

 

 放射性物質が自然崩壊し終わるまで、その物質をどこにどういう形で存在させるかについて、大きく分けて2つの考え方がある。一つは、出来るだけ狭い範囲に閉じ込めて人の生活環境から離しておくという考え方(地層注入や地下埋設はこの考え方)。もう一つは、出来るだけ広い範囲に散らばらせて人への影響を少なくするという考え方(海に拡散させる海洋放出や大気中に拡散させる水蒸気放出・水素放出がこの考え方)。前者は閉じ込めが完全でなければ環境への流失により環境を汚染する可能性があるものの、考え方としては環境を汚染させない考え方である。一方後者は、人への影響がほとんどないのであれば環境を汚染させても構わないという考え方だ。
 もし、どちらの考え方でも実現可能な方法があるなら、環境を汚染させない方がよいに決まっているだろう。しかも、環境を汚染させないのならば、国内や外国から懸念を抱かれこともない。しかし、人類が色んなもので環境を汚染させてきたことでもわかるように、不要で有害なものは環境に放出するのが簡単なため、環境に放出しない方法はなかなか開発出来てこなかった。今後、人類が原子力発電のような通常でも少量に事故時は多量に放射性物質を生み出す技術を使い続けるのであれば、放射性物質を環境に放出しない方法を開発してゆく必要があると思う。なぜなら、地球環境は閉じられた有限の領域であり、有害物質を消滅するより早い速度で環境に放出すれば、環境中の有害物質の濃度はだんだん大きくなり、やがて人間に影響を及ぼすようになるのだから。
 福島第一原発の処理水の処分方法として、地層注入や地下埋設の方法が現実的に実施できるかどうかは私には分からないが、このようなことを考えた。

 

 考えたことは他にもあるので、それも書いておく。

 

 ALPS小委員会が処理水の処分方法を絞り込む時に、「実績」や「前例」を理由に挙げているが、「実績」や「前例」があるということは実施しやすいということに過ぎず、それが良いかどうかは別の話だろう。にも拘わらず、これを理由に挙げているのは、出来るだけ良い方法を見つけようというより、出来るだけ簡単な方法で済まそうとしているように思えてならない。さらに、通常の運転時と同じ方法でかつ同じ濃度の放出であっても、事故による放射性物質の放出は通常の運転時の放出とは人の心理的影響が全く違うだろうということも考えた。やっぱり、「技術的には」と書いてあるのは、風評を含めた国内外の懸念を考慮しないということなんだなと思った。

 

 また、ロンドン条約海上からの放射性廃棄物の海洋投棄は禁じられていて、日本の原子炉等規制法でも認められていないということを知って驚いた。海上からの投機はダメで、陸上から海底トンネルを使って沖合まで移送して放出すること(今回の海洋放出の方法)はOKだなんて、なんという抜け道か。

 

 政府は、このALPS小委員会の報告を受けて、処理水の処分方法を海洋放出に決定した。これは2021年4月のことである。この時、海洋放出の実施は約2年後としていたので、今回の海洋放出開始はその時の方針に沿ったものだ。

 

●中国の日本産水産物の輸入全面停止について
 中国が8月24日に発表した輸入停止措置の文書は「税関総署公告2023年第103号」というもので、原文はもちろん中国語なので機械翻訳してみると次の内容だった。

 

=======================================
日本の福島からの核汚染水の排出によって引き起こされる放射能汚染のリスクを食品安全、中国の消費者の健康を保護し、輸入食品の安全を確保するために、中華人民共和国食品安全法およびその施行規則、中華人民共和国の輸出入食品安全管理措置の関連規定、および世界貿易機関の衛生植物検疫措置の実施に関する協定の関連規定に従い、 税関総署は、2023年8月24日(両日を含む)より、日本原産の水産物(食用水生動物を含む)の輸入を全面的に停止することを決定しました。
=======================================

 

 機械翻訳なので日本語としておかしいところもあるが、意味するところは大体わかる。「日本原産の水産物(食用水生動物を含む)の輸入を全面的に停止する」という措置を取った理由として、「核汚染水の排出によって引き起こされる放射能汚染のリスク」に関して「中国の消費者の健康を保護し、輸入食品の安全を確保するため」と書いてある。汚染水と言ったって基準値以下だしIAEAも安全性を認めているのに、とんでもない言いがかりだ、と反発するのは日本人としては当然なのですが、私は世界貿易機関(WTO)の「規定に従い」というところに注目しました。

 

 中国のこの措置って、本当にWTOで許されていることなの?、という疑問が起きたのです。もし許されているなら、気に入らないけれど文句は言えないなと思ったわけです。それで、WTOの「関税及び貿易に関する一般協定」に当たってみた。すると、第11条に次の規定があった。

 

====第11条 数量制限の一般的廃止====================
締約国は、他の締約国の領域の産品の輸入について、又は他の締約国の領域に仕向けられる産品の輸出若しくは輸出のための販売について、割当によると、輸入又は輸出の許可によると、その他の措置によるとを問わず、関税その他の課徴金以外のいかなる禁止又は制限も新設し、又は維持してはならない。
=======================================

 

 この規定は、要するに、輸入も輸出も数量制限を行ってはならない、ということです。輸入停止は数量を0に制限することですからダメということです。しかし、これは第11条の第1項で、すぐあとの第2項に「前項の規定は、次のものには適用しない」として例外がいっぱい書いてあるのです。実は他の条文のところにも数量制限禁止の例外が色々書かれていることが分かった。それらの例外に当てはまるかを検討するのは大変なのでやめました。


 細かい検討をやめたのは、日本だっていっぱい輸出制限をしているし場合によっては輸入制限だってしていることに気付いたからです。だからきっと例外というか抜け道が沢山あって、どの国も色んな理由を付けて輸出入制限をしているのが現状だと思ったわけです。実際、日本も経済制裁としてロシア対する輸出や輸入の禁止措置を行っているし、中国に対しても政治的な理由で輸出制限している品目がいっぱいある。WTOの規定では第21条に「安全保障のための例外」があって、日本の輸出制限はこれに基づいて行われていると思いますが、本当は安全保障というよりも政治的な理由でしょう。

 

 ここまで考えたら、今回の中国の輸入全面停止も表面上は食品の安全性を理由にしているが、本当の理由は政治的なところにあると考えるべきだと思いました。政治的な理由とはどういう意味か。それは相手国の行動が気に入らない時に、輸出や輸入に制限をかけることにより相手国を困らせるということです。中国は日本の何が気に入らないのか。これは考えるまでもなく明白でしょう。

 日本は昨年来、それまで以上に中国を敵視し、「反撃能力」として日本列島にトマホークを400発も並べたり、台湾有事を声高に言い立てたりしているのですから、中国が反発しない方がおかしいくらいだと思います。

 

 中国は日本の貿易相手国として輸出輸入ともに第1位です。日本の防衛を言う時に、輸出入への影響とそれによる経済や国民生活の困難を全く考えていないとすれば、そんなものは防衛政策と言えません。


 輸出入制限により相手国に圧力をかける時には、相手経済への影響と自国経済への影響とを秤にかけて判断するでしょう。今回の措置は、日本が受けるダメージに比べて中国自身のダメージが少ないと中国が判断したから実行したのだろうと思う。中国への影響も非常に大きい措置、例えば日本からの輸入をすべて止めるなどということは起こらないと思うが、中国自身への影響が比較的少ない輸出入の制限は今後も別の品目で行われる可能性があると考えた方がよいかもしれません。

 

●政府の対応への批判について
 政府の対応についての野党の批判は、主に「関係者の理解なしに、いかなる処分も行わない」との約束が守られていないことに焦点があるように思います。これは重大なことだ私も思います。また、市民活動家や環境保護団体からは海洋放出という方法への批判もあります。これについては、納得できる他の方法が私には考えられませんでした。しかし、私はこれらと違う観点からも考えました。

 

 先ず、処理水の処分方法の検討を、中国の研究者等を含む国際的な枠組みで行うべきだったと思いました。これはかなりの理想論です。しかし、今や多くの科学技術分野で中国の研究者は世界のトップクラスですし、処分方法によって多くの国が影響を受ける国際的な問題であるので、このような枠組みで検討することに意味があると私は思います。処分方法の検討には、技術的問題以外にコストも問題もあります。他国が安心できる方法を実施するための、コスト負担を他国にも求めることだってできるかもしれません。もし、そこで技術的検討により環境への負荷を抑えられる新しい方法が見つかれば、人類全体の利益にもなるでしょう。と、こんなことも考えましたが、これは政府批判というより、私の夢かもしれません。

 

 私の政府批判は次の2つです。

1.最終的に海洋放出を決める前に、なぜ中国等の反発が予想される国と相手の言い分を聞き、日本の事情も話した上で解決策や妥協案を探る外交交渉を何もしなかったのか。単にIAEAも使って、安全だと一方的に言っていただけではないか。
2.海洋放出を実施する時に、中国等の反発が予想されたので、当然その影響を考えたはずである(考えてなければ論外)。しかし、その想定は全く外れていたと思われる。従って、正確な判断が出来ていなかったということだ。事前に何のさぐりも入れていなかったのか。


●政府批判に対する批判について
 コメンテーターとかインフルエンサーとか呼ばれる人が、政府批判をする人を批判する言説をいくつか目にした。しかし、それらは私が調べて検討した程度のことも全くしていないようなコメントに思えて仕方なかった。そういう人たちのコメントに反応するよりも重要なことは、自分で調べて自分で考えることだと、改めて思った。

 

●最後に

 海洋放出後のリチウムの生物食物連鎖による濃縮や、内部被ばくでは弱いβ線でも問題になることなど、書きたかったことは他にもあるが、あまりにも長くなったので、ここで終わりにします。

 

 もし、この記事を読まれた方がいらっしゃれば心から感謝します。ありがとうございました。

日本国憲法を読んで自分なりに考えた(第2回:前文)

 第2回は日本国憲法の前文です。

 

====前文=================================
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
=======================================
※原文は段落ごとの空行はないが、見やすくするため空行を入れた

 

 まず、全体として非常にわかりにくく、そのまま読んで行くだけでは理解するのが難しい文章だと思った。はっきり言って悪文だ。その一端は、やたら長い文が多いことにある(私の文章も同じ傾向があるが)。文が長いのは、「〇〇し、〇〇し、・・・」などと文を切らずにどんどん繋げたり、長い修飾句が挟まっていたりすることと、そもそも修飾が多いためだ。それに文の構造が込み入っていて、述語の対象範囲がどこからどこまでなのかなど文の構造が不明確なことも理解を難しくしている。

 これは、考えてみれば平安朝以来の日本の文章の伝統かもしれない。理解するには文を可能な限り切って、過剰な修飾を削除するのがよさそうだ。以下で、各段落ごとに、長い文を分解して意味を考えてみる。

<1段落目>
 1段落目は4つの文からなる。その第1文は前文全体の中でもっとも難解だ。述語が「行動し」、「確保し」、「決意し」、「宣言し」、「確定する」と5つあり、それらの間の関係が分かりにくい。私が注目したのは、「ここに」っていう言葉。もし、「行動し」から「宣言し」までがすべてまとめて「確定する」にかかるなら、「日本国民は、ここに」か「ここに、この憲法を確定する」となるはずだ。だから、「行動し」から「決意し」までがひと固まりで、それを受けて「宣言し」、「確定する」となっているんだろう。

 ここまで考えたところで、各文章の意味を考えるより先に、第1条から始まる本文の前に「前文」があることの意味を考えるべきだと思った。本文の前に「前文」という前置きを書くとすれば、先ず憲法を作った経緯を書くだろう。これこれの経緯で作ったと。そこで終わりにしてもいいが、そのあとに続けるとすれば、本文全体について、その元にある考え方(理念)などを書いて本文をどう理解すべきかという指針を示すだろう、と思った。

 

 そう考えると、第1文は、「行動し」から「決意し」までの経緯があってこの憲法を作ったという捉え方が出来る。その経緯の部分だが、「行動し」と「決意し」は憲法を作った経緯として読めるが、「確保し」は経緯とは思えない。ここは「恵沢を確保し、・・・戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」を決意したと読むべきだろう。すなわち、その経緯は次のような構造で書かれていると考えられる。
  (a)正当に選挙された国会における代表者を通じて行動したこと
  (b)次の2つを決意したこと
   ①諸国民との協和による成果と、自由のもたらす恵沢を確保すること
   ②政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすること


 ここで、(b)はこれを決意して憲法を作ったと素直に読めるが、(a)はどういうことか。これは、天皇による憲法公布に先立って日本国憲法を議決した帝国議会の前に衆議院選挙が行われていたことを知ってほぼ納得できた。

 

  ・1945年12月15日  帝国議会において衆議院議員選挙法改正法案が可決成立
    ※女性に初めて参政権、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上
  ・1946年4月10日   第22回衆議院議員選挙実施(その後、2名の再選挙実施)
    ※投票率は72.08%、当選者466名のうち39名が女性で比率は8.4%
  ・1946年10月7日   帝国議会衆議院および貴族院)において日本国憲法が成立
  ・1946年11月3日   日本国憲法公布
  ・1947年5月3日   日本国憲法施行

 

 「ほぼ納得」というのは、衆議院に関しては確かに「正当に選挙された国会における代表者を通じて」憲法を審議し成立させた(行動した)と言えるが、貴族院は皇族・華族・勅任議員から成り公選ではなかったからだ。これは一種のごまかしである。帝国憲法の下で、その手続きにより日本国憲法を作らなければならなかったため仕方ないことだ。しかし、それゆえに敢えて「正当に選挙された国会における代表者を通じて」と強弁しなければならなかったとも考えられる。

 

 このような経緯で憲法を作ったというのであれば、「決意し」のあとすぐに「ここに、この憲法を確定する」と書いてもよかったはずである。そこに、「主権が国民に存することを宣言し」と入れたのは何故だろう。これも、帝国憲法の手続きにより日本国憲法を作らなければならなかったために、天皇の権力により作られたと考えられるのを否定する必要があったからだと思う。だから、ここで言う「主権」は国を統治する権力という意味よりは、むしろ憲法を定める権力(憲法制定権力)のことを言っているのだろう。
 ここまでで、ようやく私なりの第1文解釈が終わった。

 

 1段落目の2文目~4文目は比較的わかりやすい構造をしていて、書いてあることは次のようにまとめられる。
  (1)この憲法は(人類普遍の)次の原理に基づくものである
   ・国政は国民の信託によるものである
   ・国政の権威は国民に由来する
   ・国政の権力は国民の代表者が行使する
   ・国政の(による)福利は国民が享受する
  (2)日本国民はこの原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 

 ここで私が読み取った重要なポイントは2つ。一つは、「人類普遍の」というのはここに書かれた原理に対する単なる説明であり、たとえその原理が人類普遍のものでないとしても、憲法がこの原理に基づくということや、この原理に反するもの(憲法、法令、詔勅)を排除するということは変わらないという点。従って、そんな原理は人類普遍ではないよ、ということはこの憲法に対する攻撃にはならないということだ。


 もう一つは、(2)そのもの。特に、この原理に反する憲法を排除すると言っている点。これは、ここに書かれた原理に反する憲法改正は出来ないということだ。法令については、作られる法令が憲法の条文に直接抵触しないとしても、ここに書かれた原理に反する場合は違憲だということだ。詔勅について書かれているのは、旧憲法下での天皇詔勅を意識してのものだと思うが、日本国憲法下で出される天皇の名による文書や言葉もここに書かれた原理に反する場合は無効だ(効力がない)という意味と考えるべきだろう。

 

<2段落目>
 2段落目は3つの文からなる。その第1文は分解すると次のことが書かれている。
  (1)日本国民は恒久の平和を念願する
  (2)日本国民は人間相互の関係を支配する理想を自覚する
  (3)日本国民は、次のことによって、自分の安全と生存を保持しようと決意した
   ・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する

 

 (1)は戦争の惨禍のあとでこの憲法を作ったのであるから当然のこと。(3)は戦争が自国の「安全と生存を保持」するためと称して行われることを念頭において、戦争ではなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって「安全と生存を保持」すると決めた、ということであり、日本国憲法が非戦平和主義に立つことの宣言と読める。だから、(1)を踏まえて、平和を維持する方法を考えた結果、(3)となった、と理解できる。ここでの問題は、その信頼が失われた時にどうするかということだ。そのことは憲法に書かれていない。現在の日本の公式の考え方は、自衛のためには国として戦う、ということである。しかし、たとえ自衛のためであっても国としては戦争はしないが国民は侵略に対して戦う、という考え方だってあり得るだろう。

 

 この文で分からないのは(2)である。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは何だろう。政府の公式見解(第188回国会での小西洋之参議院議員質問主意書に対する答弁書)では、「友愛、信頼、協調というような、民主的社会の存立のために欠くことのできない、人間と人間との関係を規律する最高の道徳律」となっているが、そのような解釈では(2)が(1)と(3)の間にある理由が説明できないと私は思う。平和と平和を維持する方法に関連したことでないと、この文の中にある意味がないと思う。無理やり考えると、人間相互の関係において理想的な関係は平和的な関係であることを言っていて、国境を越えて人々がそういう関係にあれば国と国との関係も平和なんだという繋がり方かもしれない。

 

 いずれにしても、この2段落目の第1文のポイントは(3)にあることは確かだろう。


 余談になるが、「公正と信義に信頼」の「に」は「を」が正しいように思える。実際、2014年の衆議院予算委員会で当時議員だった石原慎太郎が「に」は間違いなので「を」に改めるために憲法改正してはどうかと質問したことがあった。それに関して、明星大学古田島洋介教授が「に」と「を」について分析している論考があったので興味がある人はどうぞ。→ https://www.jc.meisei-u.ac.jp/course/91/

 

 次に2段落目の第2文。これを2つに分解して書いてみる。
  (1)国際社会は平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を除去しようと努めている
  (2)日本国民はその国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う

 

 これは、日本は国際協調主義で行くと言っているのだが、重要なのは、国際社会において名誉ある地位を占めるためには、その国際社会が務めている(と認識した)ことを日本も務める必要があるということだろう。直接必要があるとは書いていないが、名誉ある地位を占めるとはそういうことだ。国際社会は何に努めていると書いてあるのか。平和維持と人権擁護(専制と隷従、圧迫と偏狭の除去)だ。


 現在の世界において、国際社会のコンセンサスの中心的な場は国連だが、その国連の人権に対する勧告を、「拘束力がない」と言って無視する政府って何なんだろう。それを許している国民も。
 
 2段落目の第3文も分解してみる。
  (1)日本国民は次のことを確認する
   (a)全世界の国民が恐怖と欠乏から免かれる権利を有すること
   (b)全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有すること

 

 ここでも第2文に続いて、人権について書いている。第2文が人権擁護に努めるということを書いているのに対して、第3文は人は生まれながらにして人権を持っていることを言っている。人権には色々な権利があり、ここでそのすべてを述べているわけではないが、一番重要と考えたものをあげているのだろう。

 

<3段落目>
 この段落は1つの文である。段落が変わったので冒頭は「われらは」でなく「日本国民は」である方がよいと思う。それはさておき、書かれているのは次の内容だ。
  (1)日本国民は次のことを信じる
   (a)いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない
   (b)政治道徳の法則は普遍的なものである
   (c)政治道徳の法則に従うことは次の各国の責務である
    ・主権を維持し他国と対等関係に立とうとする国

 

 この段落で言いたいだろうことは分かるが、それを表す文が正確に言いたいことを表現出来ていないと思う。表現出来ていないところは2つある。
 一つ目は、「政治道徳の法則」というのがどんな法則なのかが表現出来ていないこと。(a)がその法則だろうが、実際の文ではそれを示せていない。「政治道徳の法則は」の前に「この」を入れるべきだろう。


 二つ目は、「各国」にかかる修飾語句である「主権を維持し他国と対等関係に立たうとする」が限定修飾語句だと読み取ることもできること。すなわち、政治道徳の法則に従うことは、いろんな国のうちで主権を維持し他国と対等関係に立たうとする国だけの責務である、とも読めてしまうといことだ。こう読むと、政治道徳の法則は、「他国と対等関係に立とう」としていない国にとっては責務ではなく、他国を無視しても構わないということになる。実際、そんな国がアメリカや中国を筆頭に沢山あるだけに、
はっきりと非限定修飾語句にすべきであった。但し、格調高そうな文章で限定修飾語句と非限定修飾語句を区別して表現するのは、日本語では難しい。格調を無視すれば、「この法則に従ふことは各国(それは他国と対等関係に立たうとするものだ)の責務であると信ずる」とでも書けるだろう。

 

 そんな突っ込みは別にして。憲法が自国に対して適用されるものであることを考えると、もっと重要なことは、この文は直接的には各国の責務に対する信念を述べているだけだが、その信念を持つがゆえに、日本は次のようにするということだろう。

 

   日本は主権を維持し他国と対等関係に立とうとする。
   そのため、日本は自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。

 

 しかし、それは守られているか。アメリカとは従属関係にあり主権を侵害されることがあっても文句も言わず、最近では他国の懸念を無視して福島の汚染水を海に流すこともしている。私は上の文を「日本は」と書いたが、憲法は繰り返し「日本国民は」と書いている。だから、そんな日本になっているのは国民の問題だ。


<4段落目>
 この最後の段落は1文で前文全体のまとめとしている。過剰な修飾をすべてとるとこうなるだろう。
  
   前文に書かれた理想と目的を全力をあげて達成することを誓う

 

 ここにいう「理想と目的」が前文中のどこを指すのかを考えてもあまり意味がないだろう。前文中にいろいろなことが書かれているが、それを全体として捉えた言い方だと考えるべきと思う。


 私が気に入らないのは、「理想と」とあることだ。これはない方がよいと思う。理想を追求することは大事なことだと、私は考えるが、世の中には「それは理想だが現実は違う」とか言って理想に向かって努力することを放棄したり、理想を言う人をあざ笑ったりする人が多くいる。それを考えると、「理想と」はない方が良かった。

 

 最初にも書いたように、この前文は良い文章ではないと思う。しかし、書かれている内容に反対すべきところはない、と私は思う。

「無知は罪」か?

 ある人の話を聞いていると「無知は罪」といいう言葉が出てきた。正直に白状すると、無知な私はこの言葉が有名であることを知らなかった。ソクラテスの言葉だという。この言葉には続きがあって、「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」というのが全体らしい。ソクラテスと言えば、「無知の知」ということは知っていたので、「知は空虚なり」はこれとの関連で何となくわかるような気もする。しかし、「英知持つもの英雄なり」というのはわからない。いろいろな説明があるようだが、出来れば自分なりに考えてみたい。と言っても、全部は荷が重いので、今回は「無知は罪なり」だけ。しかも、ソクラテスがどういう意図で言っているのかは別にして、現在の日本で日本語として使われている「無知は罪」という言葉について考えたい。

 

 まず、「無知は罪」を、「成功するには知識がないとダメですよ」と言いたいために引用している人がかなりいて驚いた。それって、「無知は損」ってことでしょ。これは論外。それから、「無知は罪」を宗教的に考えることも(それに意味がないとは思わないが)、今の私の関心ではない。社会的な意味で「無知は罪」ということを考える。

 

 「無知」とは「知らないこと」だ。知らないことは罪なのか? 「無知は罪」という言葉は強いか弱いかは別にして非難の意図をもって使われていると思う。しかし、少なくとも私は、人が何かを知らないというだけでその人を非難したい気にはならない。そう考えると、「無知は罪」という言葉は、「知らないこと」を責めているのではなく、「知ろうとしないこと」を難じている言葉なのではないかと思った。

 

 それでは、知ろうとしないことは罪か? 知ろうとしたり知ろうとしなかったりは、その人の自由であるはずだ。人には自由に行動する権利がある。但し、他人に迷惑を掛けない限り(法律ではよく「公共の福祉に反しない限り」とか書いてある)。従って、人が知ろうとしないことが他人の迷惑になるという場合にのみ、それが非難に値すること(=罪)になるのだ。それはどんな場合だろう。


 人が法律やルールやマナーを知らない場合には何らの悪意もなく人に迷惑をかけてしまうことが起こる。この場合、知らなかったことは言い訳に過ぎず、知ろうとしなかったことは非難されるべきだろう。すぐに思い浮かぶのは何かをしたことによる迷惑だが、何かをすべきなのにしなかったことによる迷惑だってある。また、迷惑をかけるのが特定の人ではなく、人の集団としての社会という場合も考えられる。

 

 ここまで来てようやく、冒頭に書いた「ある人」が「無知は罪」と言っていたのは、社会的な問題についてだったことに繋がった。
 社会的な問題とは、大多数の人や弱い立場の人が困った状態にあったりそうなりそうな状態にあったりすることだ。特に大多数の人が困ることは、本来なら困らないようにしたいと大多数の人が考えて何かをしたり何かをしなかったりするはずだ(少数の弱い立場の人が困ることについては倫理観があればそうなる)。しかし、自分も含まれる大多数の困りごとについて、無関心で何もせず、むしろ困りごとを作り出すものの手助けをしたりする人がいる。そういう人が沢山いると、困りごとはなかなかなくならない。何故、そういう人がいるのか? それは、困った状態にあることやそれを作り出すものについて知らないし、知ろうとしないからだ。という風に考えて、「無知は罪」(知ろうとしないことは罪)という言い方が出てくるのだろう。

 

 ここで私は、社会的な問題について「知ろうとしないことは罪」と非難する前に、人々は何故知ろうとしないのかを考えてみたくなった。
 一般的に言って、人が何かをするためには、そのことをする「意思」と、そのことが出来る「能力」と、そのことをするための「資源」(重要な資源はお金と時間)が必要だ。人が知ろうとしないのは、知ることについての「意思」、「能力」、「資源」のうちの1つか2つか全部が欠けているからだろう。

 

 遠い昔は、社会を支配する人たちは、支配される人たちを知る能力を持たない状態に置いて来た(例えば文字を読めない人が大多数だったりした)。また、知るためには今よりずっと多くの資源(お金と時間)が必要だったが、支配される人たちはその資源をほとんど持っていなかった。しかし、現在では大多数の人が知るための能力を持っているし、知るために必要なお金がないということもないだろう。従って、人が知ろうとしないのは、知る意思がないか知ることに割ける時間がないということだ。時間については、たしかに皆んな忙しくしていて充分な時間がないということは分かる。しかし、自由にできる時間が全くないわけではなく、多くの人が残った自由な時間も社会に目を向けさせない娯楽などに使っている(使わされている)のではないだろうか。なので、全く時間がないということはないと思う。だから、最大の原因は知る意思がないということだろう。

 

 多くの人々が、自分にも影響が及んでいる社会的な事柄について知る気(意思)がない、というのは何故だろうか。それはこういう理由だと、言うことは私にはできない。しかし、多くの人々がそうなるように仕向けられている気がしてならない。そう考えると、知る気(意思)がない人に対して、知ろうとしないことは罪(「無知は罪」)と非難することが出来るだろうか。

 

 現在のことを念頭に書いてきたが、このことを考えると、日本のほぼ全員が耐え難い苦難に見舞われた戦争のことを思わざるを得ない。敗戦のあと、多くの人が「知らなかった」、「騙されていた」と言い合ったという。その人たちを「知ろうとしなかった」と非難できるだろうか。戦前の社会は、いろんな仕組みで人々が知ろうとしないようになっていたように思う。そして、今また同じような状況になってきているのではないかと思ってしまった。

 

家から歩いて数分の「餃子の王将」が閉店になって・・・

 ときどき餃子が食べたくなります。家から歩いて数分のところにあった「餃子の王将」が少し前に閉店になった。それで、今日は「ぎょうざの満州」で買ってきて昼食に餃子を食べたんだけど、やっぱり王将の方がうまいなと思いました。

 

 世の中一般的にはどこの餃子が好きなんだろうとちょっと気になったので、ネットに出ているチェーン店の餃子ランキングで目に付いたものを5つ拾って平均を取ってみました。

      

 (1)~(5)は以下のサイトです。
  (1)餃子がおいしいチェーン店の人気ランキング!みんなが選ぶおすすめは?
     https://ranking.macaro-ni.jp/ranking/570

  (2)お持ち帰り餃子がおいしいチェーン店」ランキングTOP15!
    https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/236011/

  (3)餃子欲を満たしてくれる全国展開餃子チェーン店を紹介
     https://gyoza.love/store/32648/

  (4)持ち帰り餃子の人気ランキング、どこが一番好きか500人アンケート
     https://news.mynavi.jp/article/20200419-1017783/

  (5)【餃子ランキング】 チェーン店の餃子 どこが一番おいしいか⁉ 決定版
    https://suzume-log.com/archives/440

 

 やっぱり平均1位は「餃子の王将」か。以下、2位「大阪王将」、3位「ぎょうざの満州」と続く。私の好みとこの3店の順序は同じだ。でも、私の好みでは2つの店がこの上に来るんだよね。


 私の好みの餃子の店
  1位 眠眠
  2位 551蓬莱
  3位 餃子の王将
  4位 大阪王将
  5位 ぎょうざの満州

 

 昔、関西に住んでいた時は、歩いて行ける近くの「餃子の王将」より、バスに乗って「眠眠」に行くことの方が多かった。小ぶりで薄皮の焼き餃子を3~4人前食べるのが定番でした。上のリストではかろうじて10番目に入っている程度。私は餃子の好みまで世の中から外れているんだな。

 

 「551蓬莱」は豚まんが一番有名で次が焼売かな。私は豚まんは食べないが、蓬莱の焼売が大好きで、店は関東にはないので時々通販で取り寄せています。「蓬莱は焼売」という刷り込みが強烈で、昔は餃子に意識が行きませんでした。関東に移ってから旅行で京都に行った時に、たまたま伊勢丹地下の蓬莱のイートインで焼売の他に初めて餃子も食べたら、めちゃ私の好みでした。それで一躍2位に。焼売は取り寄せて食べても美味しいが、餃子はチルド解凍を焼いたらダメでした。なので、蓬莱の餃子は関西に行った時しか食べられません。

公民館で本を受け取ろうとしたら・・・

 本は図書館で借りて読むことが多い。それも図書館には行かずにネットで貸出依頼して、近くの公民館で受け取ることがほとんどだ。昨日、本を受け取りに公民館に行ったら、取扱いをしていなくて受け取れなかった。月曜日は公民館で本の受取サービスをしてしていないことを、すっかり忘れていたのだ。


 公民館は国民の祝日と年末年始を除いて毎日開いているので、窓口には職員の人たちがいたし、図書館から届いた本を並べた棚が見えている。3日ほど前に、依頼した本を公民館に配送した旨のメールが図書館から届いていたので、その棚の中に私が頼んだ本もあるはずだ。それでも、本の受取サービスを担当する人は休みなので、受け取ることはできなかった。月曜日はサービスしないことを忘れていた私が悪いので、特に不満を感じることなく公民館をあとにした。

 

 そのあと、少し離れたスーパーに歩いて行ったが、歩きながら公民館でのことを考えた。本の受取サービスは、私から図書館利用券を預かって、棚にならんだ袋(その中に本が入っていて袋に頼んだ人の利用券番号を書いた紙が挟んである)から該当のものを探し、その袋を私に渡して受取りの署名をしてもらうだけなので、誰でも出きる作業だと思える。しかし、本の受取サービスを担当する人以外はそれをしないし、してはいけないのだろう。

 

 これは、雇われている人の業務内容が明確でそれ以外の仕事はしないということなので、ジョブ型雇用というものだなと思った。欧米の会社はジョブ型雇用だが、日本の会社はメンバーシップ型雇用で今後はジョブ型雇用に変えてゆくべきだという議論があるが、ここではジョブ型雇用が出来てるじゃん。これは、会社じゃなく役所(の出先機関)だからだろうか。でも、知り合いの市役所の職員は何年か毎に異動があり職場を移ると言っていたよな。ということは特定の仕事をするために雇われるのではなく、雇われてから年とともに色んな仕事を担当してゆくというメンバーシップ型雇用だろう。しかし、メンバーシップ型雇用でもある時点では決まった仕事をしていて、別の担当の人の仕事を肩代わりすることは普通はない。公民館での経験はそういうことだろうか。そうかもしれない。

 

 ここまで考えた時に少し別の方向に思考が広がった。知り合いは市役所の正規職員だが、公民館にいた人はパートタイマーなどの非正規雇用だろうと思った。今回経験したことは正規でも非正規でも普通のことだとしても、そのこととは別に正規と非正規の違いを考えていた。


 非正規の人は基本的に特定の仕事をするために雇われその仕事がなくなると契約終了となるのが普通だろう。だから、非正規雇用は本質的にジョブ型雇用なんだろう。では、正規雇用の人をジョブ型雇用に変えてゆくということは何を意味するのか。メンバーシップ型雇用が一般的である現在の日本では、正規雇用は「雇用期間の定めのない、いわゆる終身雇用」だが、これを非正規雇用と同じような有期雇用に変えてゆくことが、雇う側の本当の目的なのではないか。というあたりまで考えたら、スーパーに着いた。

 

 正規と非正規、ジョブ型とメンバーシップ型、この組み合わせは4つあるが、そのそれぞれについて考えてみたいという気もする。だが、今日はこれ以上考えない。昨日考えたことだけ書いて終わりにしよう。