辺民小考

世の中の片隅に生きていますが少しは考えることもあります ― 辺民小考

宗教法人の固定資産税非課税について

 政府(文部科学省)が旧統一教会に対する解散命令を請求する方向で検討に入ったという報道があった。衆議院解散・総選挙の前の支持率上昇を狙ったものだという観測もあるが、選挙前のパフォーマンスやバラマキはいつものことなので、今更文句を言う気にはならない。また、今回は旧統一教会についての話でもない。ただ、この報道で以前に考えていたことを思い出したので、そのことを書いてみる。

 

 以前に考えていたことというのは、宗教法人の境内地には固定資産税が課税されない、ということについてだ。このことを考えたのは、ウォーキングを始めた頃だ。ウォーキングの時には寺や神社や教会に立ち寄ることも多いが、部外者の立入りを禁じているところもあり、そのことと固定資産税非課税ということの関係について思いを巡らした。

 

 ほとんどの神社や寺は誰でも境内に自由に入って行けるし、教会も信者じゃなくても敷地や礼拝堂に入れるところが多い。それで、あまり深くは考えずにそういうものだと思っていた。ところが、一部の寺やいわゆる新興宗教の施設の多くは部外者立入禁止になっている。そういうところに何度か出くわすと、逆に多くのところが誰で入れるようになっているのは何故なのかと考えるようになった。神社や寺は昔から地域の人達が自由に出入りする場所だったので、その習慣が今に続いている面があるだろう。また、教会や一部の新興宗教では入ってくる人を潜在的信者と考えて門を開いているのかもしれない。あるいは、宗教団体の側が少なくとも境内地は広く一般に開かれているべきだと考えていることもあるだろう(観光地となっている寺院では拝観料と称して入場料を徴収する目的もある)。いずれにしても、自由に入れるということは(入場料が必要だとしても)公共性があると言えるだろう。そこまで考えて、固定資産税のことを思い出した。そうか、公共性がある場所だから、固定資産税が非課税になっているのか。すると、部外者立入禁止にしている宗教法人はおかしいと思えてきた。。

 

 宗教法人は僕が考えたように公共性があるから固定資産税が非課税なのか? その疑問が浮かんだので法律を調べてみることにした。固定資産税は市町村税だから、地方税法に宗教法人を固定資産税非課税にする根拠があるはずだ。地方税法を見ると、第三百四十八条にその根拠があった。その条文は非常に長く、固定資産税の非課税の団体として大変多くのものが挙げられている。ここですべては挙げきれないが、学校法人、医療法人、公益社団法人、公益財団法人、社会福祉法人などと並んで、宗教法人が非課税の団体となっている(宗教法人で非課税な固定資産は「専らその本来の用に供する境内建物及び境内地」に限られるが)。この条文に挙げられた宗教法人以外の法人をみると、いずれも公共性があると考えられているものであることが分かる。従って、宗教法人の境内地や境内建物の固定資産税が非課税なのは公共性あると考えられるためだろうと確信した。

 

 しかし、公共性のある法人の施設はすべて自由に立ち入れるわけではない。学校も自由に出入りできることが多い大学を除くと部外者立入禁止が普通だし、公共施設もその施設の利用者以外は立入禁止になっていることも多い。では、宗教法人が部外者立入禁止とすることは当然なのだろうか。どうも私には、学校や公共施設が部外者が入るのを禁止することと、宗教法人が信者以外を締め出すことは同様のこととは思えない。他の公共施設がその施設の利用資格がある人に利用を限定することと、特定の宗教を信じる人だけに利用を限定することはかなり違うのではないか。特定の宗教を信じる人だけに利用を限定した途端に公共性はなくなっていると言えないか。境内を広く一般に開放していわば公共の場所にしている神社や寺も多いとこを考えると、宗教法人は常に公共的なのではなく、公共性をもって運用することもできるが、非常に閉鎖的にも運用できるということではないか。

 

 憲法は第二十条で信教の自由を保障している。従って、どんな宗教法人もその法人の持つ施設の境内や境内建物を使って儀式行事や宗教上の行為を行うことを妨げられないことは当然だ。それらの儀式行事や宗教上の行為が部外者の立入を許さない形で行うことに何の問題もない。しかし、信教の自由を保障することと、宗教法人を優遇することは別のことだ。宗教法人だからとといって、それだけを理由として税制優遇するのはおかしいと私は思う。そうではなく、宗教法人が公共性を有する範囲において、その公共性ゆえに税制優遇するという考え方であるべきだろう。

 

 以上のことから、宗教法人の固定資産税についての私の提案は次のものである(提案しても誰も取り上げてくれないとは思うが)。

  宗教法人の所有する境内地および境内建物は、一般公衆が自由に出入りできる
  部分についてのみ固定資産税を非課税とする。
  (信者等の関係者に利用を限定する部分には固定資産税を課税する。)

 

 なお、宗教法人の税制優遇については、固定資産税以外に、宗教活動に伴う収入が非課税になっていることがある。これについても少し考えた。詳細は省くが、こちらの方は公益性の問題よりも信教の自由の観点から考えるべきだと思い、今のところ課税すべきだという結論にはならなかった。

消費税とインボイス制度 ― その悪辣で非道な仕組み

 10月から消費税に関してインボイス制度が導入されるので、新聞各紙にもそれに関連した記事を見ることが増えた。以前、「インボイス制度の問題点についてはネット上で多くの人が語っているので、私が書く必要もない」と書いたが、家人や近くの知人に聞いてみると、自分たちに直接関係しないインボイス制度について知らないのは仕方ないにしても、自分たちがいつも負担している消費税についても全く理解していないことが分かった。実は私自身、昔は消費税のことを誤解していたので、彼らを非難することはできない。それで、かつての自分も現在の周囲の人もよく知らないのであれば、消費税について書いておくことも意味があるかと思った。また、手元の新聞を見た限り、インボイス制度の問題点と私が考えていることがきちんと書かれていないことに気付いたので、インボイス制度についても書いてみようと考えた。

 

●消費税とはどういうものか
 私の周囲の人のほとんどは、消費税とは「消費者が小売店やサービス提供店に代金を支払う時に本体価格に上乗せして支払った税金を、小売店やサービス提供店が預かっておいて後で税務署に納税する」ものだと思っていた。これは、誤解だ。この誤解は日本の消費税を「直接消費税」と呼ばれる税であると考えてしまっていることを意味する。一般に消費税と総称される税は消費者が負担する税金であることは確かだが、実は消費税には様々な課税の仕方があって、日本の消費税は「直接消費税」ではない。

 

 日本で「直接消費税」となっているのは、ゴルフ場利用税入湯税で、これはゴルフ場や温泉施設が利用者から利用料金と合わせて税金を徴収して納税するものです。日本の消費税は、商品やサービスについてこのような仕組みになっているわけではありません。消費者が誤解するのは、レシートや領収書に消費者が負担すべき消費税分の金額が表示されているからだと思います。それは小売店やサービス提供店が「税金分があるから高くなっているだけだよ」とアピールしたいからでしょうが、実際はそこに表示された税金分を小売店やサービス提供店が納税するわけではありません(このことはあとで述べます)。その意味では消費者を欺く行為だと私は思っています。

 

 では、一般的に消費税と総称される間接税のうちで、「直接消費税」ではない税は誰が納税するのでしょうか。わかりやすいのは、酒税やガソリン税で、これは国内の酒やガソリンの製造業者(または輸入業者)に課税され、その業者が税金を支払ってます。そしてその税金分を販売価格に上乗せして、卸売業者や小売業者に税金分を含んだまま次々と転売してゆくので、最終的には消費者がその税金分を負担することになります。日本の消費税はこれと同じ仕組みでしょうか。いえ、違います。

 

 一般的に消費税と総称される間接税には、製造から小売に至るすべての取引段階に課税される仕組みがあり、日本の消費税はこのタイプの税金です。これは一般的には付加価値税と呼ばれる税金で、外国の税制を紹介する時には国税庁も「付加価値税」と呼んでいます。しかし、日本の消費税を「付加価値税」と敢えて呼ばないのは、一般消費者をだまして「直接消費税」であるかのように思い込ませる策略ではないかと思います。

 

 日本の消費税が付加価値税だという意味は、製造から小売に至るすべての取引段階の事業者に対して、売上金額から仕入金額を差し引いた金額(これを付加価値といいます)に課税する仕組みだということです。そもそも事業者は売上金額から仕入金額と人件費や様々な費用を差し引いた利益に対して法人税を課税されているので、これはある意味で事業者に対する二重課税です。そんな税金を課税されるとしたら、事業者は今までと同じ利益を確保するためにその税金分を販売価格に上乗せしようとします。しかし、その事業者の仕入先の事業者も同じように考えて税金分を販売価格に上乗せしようとするので、自分が払うべき税金分を上乗せするだけでは利益が減ってしまいます。それで、事業者が納税するのは、自分が払うべき税金から仕入金額に含まれている考えられる税金分を差し引いた分だけでいい、となっています。これが、日本の消費税の基本的な仕組みです。

 

 非常にわかりにくいので、簡単な例を挙げて説明します。簡単にするため、商品の製造業者(A)と小売業者(B)と消費者(C)の間の2段階の取引形態を考え、製造業者はどこからも仕入がないものとし、消費税率は10%とします。


<消費税がない場合の取引>
  製造業者(A)  価格10,000円でBに販売
          ⇒粗利は10,000円
 
  小売業者(B)  Aから10,000円で仕入れた商品を価格1500円でCに販売
          ⇒粗利は5,000円

  消費者(C)   Bから商品を15,000円で購入

 

<消費税がある場合の理想的な?取引>
  製造業者(A)  税抜価格10,000円に税金分1000円を加算して11,000円でBに販売
          ⇒Aは税金1,000円を納税
          ⇒粗利は10,000円

  小売業者(B)  Aから11,000円で仕入れた商品を税抜価格15,000円に
          税金分1,500円を加算して16,500円で販売
          ⇒Bは消費者に税金分だと言って受け取った1,500円のうち、
           仕入価格に含まれる税金分を差し引いた500円だけ納税
          ⇒粗利は5,000円

  消費者(C)   Bから商品を16,500円で購入
          ⇒Cは納税しないが、税金分だとして1,500円負担しています

  合計納税額  Aの1,000円+Bの500円=1,500円
 
 このケースを消費税がない場合と比較すると、AもBも粗利は変わらず、消費者(C)の負担が1,500円増えていて。消費者が負担した1,500円がAとBに分割されて納税されています。このケースでは、「消費税は消費者だけが負担するもの」という一般に信じられていることと結果的に同じになっています。

 

 しかし、実際は必ずしもこのようになりません。取引における売買価格は双方の力関係に大きく影響されるからです。例えば、小売店(B)の力が製造業者(A)より圧倒的に強い場合、Aが消費税分を上乗せすることをBが認めず元の1000円でしか買ってくれないかもしれません。そして、Bが消費者に対して強い立場(値引きする必要がない)だとすれば、予定通り税抜1500円で消費者(C)に売るかもしれません。その場合には、上の取引は次のようになります。

 

<Aが消費税分を上乗せ出来ないケース>
  製造業者(A)  10,000円(税抜価格9,091円)でBに販売
          ⇒Aは税金909円を納税します
          ⇒粗利は9,091円

  小売業者(B)  Aから10,000円で仕入れた商品を税抜価格15,000円に
          税金分1,500円を加算して16,500円で販売
          ⇒Bは消費者に税金分だと言って受け取った1,500円のうち、
           仕入価格に含まれる税金分909円を差し引いた591円を納税
          ⇒粗利は5909円

  消費者(C)   Bから商品を16,500円で購入
          ⇒Cは納税しないが、税金分だとして1,500円負担しています

  合計納税額  Aの909円+Bの591円=1,500円

 

 このケースを消費税がない場合と比較すると、Aは粗利が909円減り、Bの粗利が909円増えています。合計納税額は変わりません。これは、力の弱いAは税金分を転嫁できていないのに税金を払わされ、力の強いAは消費税がない場合と同じ価格で仕入れているのに消費税分を消費者に払わせることによって利益を増やしているのです。税務署は消費者に売る金額が変わらない限り、流通段階のどこかの段階の事業者が泣くことになっていても同じ税金を徴収できます。

 

 次に製造業者(A)は小売業者(B)に対して強い立場のため、消費税を上乗せすることができるが、Bは競合他社との価格競争があって消費者(C)に消費税分を転嫁できない(消費者に対して弱い立場)場合を考えてみます。

 

<Bが消費税分を上乗せ出来ないケース>
  製造業者(A)  税抜価格10,000円に税金分1000円を加算して11,000円でBに販売
          ⇒Aは税金1,000円を納税
          ⇒粗利は10,000円

  小売業者(B)  Aから11,000円で仕入れた商品を15,000円(税抜価格13,636円)で販売
          ⇒Bは消費者から税金分1,363円を受け取ったものとして、
           仕入価格に含まれる税金分を差し引いた363円を納税
          ⇒粗利は3,637円

  消費者(C)   Bから商品を1500円で購入
          ⇒Cは税金分として1,363円負担したことになっている

  合計納税額  Aの1,000円+Bの363円=1,363円

 

 このケースを消費税がない場合と比較すると、Aの粗利は変わりませんが、Bの粗利は1,363円減っています。消費者は消費税がない場合と同じ金額で購入出来ているので、実際は消費税を負担していませんが負担したことにされています。力の弱いBが消費税分の1,363円を全部をかぶっています。税務署は小売販売価格に応じた税金をしっかり徴収できています。実際には、流通経路は多段階になることが多く、その多段階の業者のうちでのどこかで力の強い弱いによって消費税を巡ってこのような損や得が生じてしまうのです。

 

 ここまで、理解しやすいように、慣れている「消費税を上乗せする」という説明の仕方してきましたが、実際の取引においては、税抜価格という絶対的なものがあってそれに消費税が加算される訳ではないのです。消費者はレシートや領収書に「本体価格xxx円、消費税xx円」のように書かれているのを見慣れているので、間違ってしまうのです。消費者も含めて、取引において重要なのは実際にいくらで買えるかであって、その内訳に税金が含まれているかどうかは買う側にとって本当はどうでもいいことです。例えば、上の例で消費者が出費を15,000円以内に抑えようとするなら、(税込みで)15,000円にならないか交渉すればいいはずです。しかし、本体価格+消費税という考え方に慣らされてしまっているために、面倒にも頭で計算して(10%の消費税があるから13,500円以下かな)、あるいは電卓をたたいて(15,000円÷1.1=13,636円)、税抜き金額で交渉したりします。これは本当はおかしなことです。事業者間の取引でも、重要なのはいくらで売れるか・いくらで買えるかです。交渉の結果、概ね値段が決まれば、請求書に消費税を記載する必要があるため、切のよい税抜き価格にするよう微調整したりします。税抜価格(本体価格)が重要なのではなく、実際の販売価格が重要であることは、国税庁のHPにある消費税の計算方法をみれば、消費税は売上金額の100分の10、となっていることでもわかります。税抜金額や消費税額は実際の販売金額から逆算して計算されるものなのです。

 だから、実際には消費税の上乗せを認める・認めないというより、売る側が自分の消費税負担のことを考えて10%の値上げを申し入れるが、力が弱い場合は5%の値上げしか認められなかったり、まったく値上げを認められなかったりするということです。上の例では、簡単のためにまったく値上げを認めないケースを書いていますが、力の強い・弱いに従って損と得が生じることは変わりありません。ただ、その金額が変わるだけです。

 

 以上からわかるように、日本の消費税は、消費者の負担があるだけでなく、力の強い者が得をして力の弱い者が損をする強者優遇の制度なのです。

 

 なお、この制度でもっとも大きな利益を得るのは巨大な輸出事業者です。それは、販売先が海外なので受け取った消費税は0円ですが、国内での仕入には消費税分が含まれているとされるからです。納税すべき金額は0円から仕入価格に含まれる消費税分を差し引くのでマイナスになりますが、このマイナス分は税務署から還付金としてもらえるのです(輸出戻し税)。例えば、トヨタ自動車の場合は6,000億円もの還付金を受け取っているという試算もあります。輸出事業者が仕入先へ消費税分をきちんと支払っているのなら、輸出戻し税という仕組みは理解できますが、力の強い巨大企業は仕入先の納入価格を出来るだけ抑えて購入していると想像できます。いくら安く仕入れてもその中に消費税分が含まれているとみなされるため、必ず還付金が受け取れます。

 

 私は、この輸出戻し税という仕組みを知って、もしどこかの会社から給与をもらっている人が事業者であると言えたらどうなるか、ということを考えてみました。給与をもらっている人は自分の労働力を売っている販売事業者と考えられます。では、売るための労働力はどのようにして仕入れているのでしょうか。労働力は、いろいろな商品やサービスを買って生き続けることによって得られていると考えられるので、生きてゆくために買った商品やサービスを労働力を売るために仕入れていることになります。もちろん、生きてゆくために買った商品やサービスは労働力を売るためだけに使う訳ではありません。生活しているのは、労働力を売るためだけでなく、人生を楽しむためでもあります。従って、生きてゆくために買った商品やサービスのある部分は仕入から除く必要があります。これは、事業者の自家消費(仕入れた商品を売らずに自分で消費してしまうこと)と同じです。労働力を売るために生活している部分と人生を楽しむために生活している部分を簡単に分離することはできませんが、労働力を売るために生活している部分があることは確かです。しかも、貧しい人ほどその部分は大きいでしょう。


 このことを踏まえて、事業者であると仮定した給与所得者に消費税の仕組みを適用してみます。給与には消費税は上乗せされていませんから、受け取った消費税は輸出事業者と同じように0円です。一方、労働力を売るために生活している部分で買った(仕入れた)商品やサービスには消費税が含まれています。だから、受け取った消費税(0円)から仕入に含まれる消費税を差し引くと必ずマイナスになり、その消費税分を税務署から還付してもらえることになります。


 しかし、給与所得者は事業者でなく単なる消費者と考えられているため、支払った消費税を返してもらうなんてことは出来ません。消費者の圧倒的多くは給与所得者であるが、消費税は、人生を楽しむために生活している部分に課税する(消費税以前にあった物品税はこの考え方だろう)だけでなく、働く(労働力を売る)ために生活している部分(貧しい人ほどこの部分が大きい)に対しても課税する悪辣非道な税金だと、私は思います。

 

●免税事業者について
 消費税は上に述べたように、本来は消費者だけに負担を強いるはずの税金であるにもかかわらず、現実には弱い立場の事業者にそれとは別の負担を強いる(その裏で強い立場の事業者に不当に儲けさせる)制度であることがわかります。弱い立場の事業者とはどういう事業者でしょうか。事業規模の小さな零細事業者だろうと想定されます。このため、国は消費税の導入にあたり、申し訳のように年間売上3,000万円以下の事業者の消費税納税を免除しました。その後、免税基準点は引き下げられ、現在は年間売上1,000万円以下の事業者が免税事業者になっています(実際はさらに色んな条件が付けられて免税事業者を少なくしていますが、それは省略します)。

 

 免税事業者となってる零細事業者はどういう事業者でしょう。2つに分けて考えると分かりやすいです。一つは、零細な小売事業者です。そしてもう一つは別の事業者に商品やサービスを提供する下請け事業者や個人事業主です(この2つが重なっている場合もあり得ますがややこしくなるので省略します)。

 

 零細な小売事業者は、仕入先から消費税分を上乗せされて消費税導入前より仕入価格が上がるにもかかわらず、値上げして消費者に消費税全額分を払ってもらうのが難しい場合があると想定されます(正札価格ではなく値引したりした結果の実際の販売価格の話です)。例えば、10,000円で仕入れた商品を15,000円で売っていた場合、消費税導入後は仕入値が11,000円に上がるので税務署に消費税を払うとすれば16,500円で売らないと同じ利益を確保できません。しかし、値上げできないケースや値上げしても16,500円より安い価格で売らざるを得ないことが零細小売業者では起こりがちだと考えられました。たとえ免税事業者になっても、全く値上げしないと仕入値が1,000円上がっているので、利益は1,000円減少することに注意が必要です。免税事業者になっても、同じ利益を確保するには、1,000円高く16,000円で売らなければならないのです(その場合、レシートに消費税分を書くとすれば、本体価格14,546円、消費税1,454円と書かざるを得ません)。免税事業者のことを知っている人で、16,000円に値上げされたのを知って、「免税事業者なのに値上げして消費税を自分の懐にいれている」と言う人がいますが、これは完全な誤解です(16,000円で売っても利益は増えません)。

 もし免税事業者になっていて、16,500円(本体価格15,000円、消費税1,500円)で売れば利益が500円増えるので「益税」が発生しますが、益税は1,500円ではなく500円です。益税は本体価格の3.3%に過ぎません。苦しい商売をしていると思われる零細小売事業者にこの程度の益税が発生しても、私は目くじらを立てる気にはなりません。

 

 もう一つの下請け事業者や個人事業主の場合は、消費税導入に伴って、商品やサービス(仕事)の納入先に消費税分を値上げしてもらうのが難しい場合が想定されます。それで零細な下請け事業者や個人事業主は免税事業者にされたわけですが、納入先は下請け事業者や個人事業主が免税事業者であることが容易に想像できるので、消費税分の値上げは認めないと、ほぼ確実に想像できます。従って、このような免税事業者に益税が発生して、消費税導入前より利益が増えるなんてことはまずありえないでしょう。ここで、注意しないといけないのは、納入先は消費税分を上乗せして仕入れていなくても、仕入れ価格には消費善分が含まれているとして自分が納める税金から差し引くことができることです(控除できるのは仕入価格の110分の10ではなく110分の7.8ですが)。この結果、免税事業者ではなく、免税事業者から仕入れている事業者に益税が発生します。国税庁のHPには次のように書かれています。
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shohi/6455.htm

 

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No.6455 免税事業者や消費者から仕入れたとき

対象税目
消費税

 

概要
消費税の納付税額は、課税期間中の課税売上げに係る消費税額からその課税期間中の課税仕入れ等に係る消費税額(仕入控除税額)を控除して計算します。

 

この場合の課税仕入れとは、事業のために他の者から商品などの棚卸資産仕入れのほか、機械や建物等の事業用資産の購入または賃借、原材料や事務用品の購入、運送等のサ-ビスの購入などをいい、その課税仕入れに係る相手方が課税事業者であることを要件としていません。

 

したがって、免税事業者や事業者ではない消費者から仕入れた場合も、仕入税額控除の対象となることから、その支払った対価の額は消費税および地方消費税込みの金額とされますので、その対価の額の110分の7.8(軽減税率の適用対象となる課税仕入れについては108分の6.24)相当額は、消費税額として仕入税額控除を行うことができます。

 

具体例
例えば、免税事業者である下請業者に外注費100万円を支払ったとします。この100万円の支払の中には、その110分の7.8に相当する70,909円の消費税額が含まれているものとして、仕入税額控除を行うことになります。このことは、事業用の建物や器具などを事業者でない人から購入したり賃借する場合も同じです。

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 国税庁のこの具体例で考えると、免税事業者から仕入れているこの事業者は、自分が売る時に受け取っている消費税分から70,909円差し引いた金額を納税すればいいのです。免税事業者には70,909円上乗せして支払っていないことはほぼ確実なので、この事業者は消費税をダシにして70,909円儲けたことになります。

 ここも消費税が強い者を儲けさせる仕組みであることが表れています

 

インボイス制度とはどういうものか
 インボイスとは何か。もともとの英語の Invoice は「送り状または明細付き請求書」のことですが、消費税に関して10月1日から導入されるインボイスというのは国税庁が「適格請求書」と呼んでいるもので、売手が買手に対して適用消費税率や消費税額等を伝えるものです。インボイス制度は、この適格請求書(インボイス)を使って消費税の納税を管理しようとするものです。適格請求書についてのポイントは、次の2つです。

  (1)適格請求書を発行できるのは課税事業者だけ
  (2)事業者が自分が支払った消費税分を自分が納める消費税から差し引くには、
     仕入先から適格請求書をもらう必要がある

 

 これは、免税事業者とそこから仕入れる事業者に大きな影響を及ぼすもので、(1)は免税事業者は適格請求書を発行できないことを意味し、(2)は免税事業者から仕入れる事業者は仕入価格に含まれる(と考えられる)消費税分を自分の納める消費税から差し引けなくなるということです。

 国(国税庁)はインボイス制度の目的を、複数税率(現在は10%と8%)が混在する仕入について正しい消費税の納税額を算出するため、と称していますが、実質的には現在は免税事業者から徴収していない消費税を新たに徴収しようとするものです。その意味では増税に他なりません。この制度の悪魔的なところは、免税事業者を無くすのではなく、現在の免税事業者は免税事業者のままでいることもできるし課税事業者に変更することもできる点です。すなわち、免税事業者がそのまま免税事業者であり続ければ、免税事業者の消費税分の税金を免税事業者の販売先事業者から新たに徴収できるし、免税事業者が課税事業者に変わってくれればその事業者から消費税を徴収できるという、国税庁が「お前らで喧嘩してでもどちらにするか決めてくれ、どっちにしても俺(国税庁)は今まで取ってなかった税金をお前らのどちらからかはちゃんと取れるんだ、えへっへ」とでも言っていそうな制度なんです。これでインボイス制度の本質的なことろは説明出来ているはずですが、ちょっとわかりにくいと思うので、説明の仕方を変えてみます。

 

 免税事業者は、課税事業者になって新たに消費税を納税するメリットは何もないので、当然そのまま免税事業者を続けたいと思うでしょう。でも、そうすると、納入先の事業者は税金が増える(仕入に含まれるとして自分が納める消費税から差し引いていた消費税分が差し引けなくなる)ことになります。良心的(?)な納入先ならば、下請けに税金を払わせるのはかわいそうだから、うちの税金が増えるのは我慢しよう、となるかもしれません。しかし、もっとありそうなのは、下請けに対して、課税事業者になるように圧力をかけることでしょう(あるいは自分が新たに支払うことになった税金分を差し引いた金額を納入価格にするように強いるでしょう)。
 ここで免税事業者は迷います。課税事業者になれば消費税を取られるし、断れば納入先から仕事をもらえなくなる(商品を買ってもらえなくなる)かもしれない。かといって、納入価格を税金分値下げするのは消費税を払うのと同じことだし。これがどう決着するかは分かりません。私の想像では、仕方ないので課税事業者になった上で、なんとか少しでも納入価格を上げてもらうように交渉する下請け事業者が多いのではないかと思います(その成功率は低そうですが)。

 

 重要なのは、いずれに決着しても下請け事業者か納入先事情者かどちらかあるいは両方の利益が圧迫されるということです。しかし、国(国税庁)は必ずどちらかかから免税にしていた消費税を新たに徴収できるということです。

 

 国税庁は制度変更に伴う緩和措置(増える負担の軽減措置)を期間を区切って設けるようにしていますが、あくまでも負担の軽減に過ぎず負担が増えることは変わりありませんし、これはあくまで経過措置なのでいずれフルに負担がかかってきます。

 

 免税事業者が課税事業者に変わるということは、それが仕入のない末端の事業者(例えば個人事業主はみんなそうです)であれば、経過措置終了後は、今の税率のままでも売上(収入)の11分の1(9.1%)の税金を納めなければなりません。しかもこれは法人税(または所得税)の他に新たにかかる税金です。新たに9.1%の増税をされると、零細事業者やフリーランスの人は仕事が続けられなくなることも多いのではないかと危惧します。

 

 小さい町工場のような零細事業者がつぶれるのも問題ですが、文化・芸能・出版・報道等の分野で働いているフリーランスの人たちが立ち行かなくなるのは個人の問題ではなく大きな社会的損失になりかねないと思います。

 


 

9月1日 ― 書きたくなかったが、書かざるを得なくなった

 今日は関東大震災から100年目の日だった。地震で多くの人が亡くなった日である。私が生まれた以降でも、甚大な被害をもたらした巨大地震が、阪神・淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の2回あり、その地震でも多くの人の命が失われた。多くの人が亡くなった地震のことを書くのは気が重い。関東大震災についてさらに気が重いのは、震災に乗じて数々の虐殺事件が起こったことだ。だから、書きたくなかった。
 だが、関東大震災のときに起きた朝鮮人虐殺についての松野官房長官の発言を聞いて書かざるを得なくなった。

 

●松野官房長官が記者会見で述べたこと

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関東大震災朝鮮人虐殺、松野官房長官「事実関係把握する記録見当たらない」

 松野官房長官は30日の記者会見で、関東大震災の発生時にデマによって起きた朝鮮人虐殺について「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べた。その上で、「特定の民族や国籍の人々を排斥する不当な差別的言動、暴力や犯罪は許されない」と語り、政府としてSNSの発信などを通じ、外国人差別解消に向けた啓発活動に取り組んでいると強調した。
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(以上、読売新聞オンラインの記事)

 

 この記事を読んで、朝鮮人虐殺があったことは歴史的事実だと思っていた私は、非常に驚いた。歴史的事実だが、政府内部には一切記録が残っていないということか? いくら100年前の大正時代だといっても、当時の政府が何の記録も作らなかったとは考えられない。その後、長年の間にすべて失われたか、あるいは敗戦の際に戦争関係の文書と同様に不都合なものとして焼却されてしまったのだろうか。

 

●日本ファクトチェックセンター(JFC)によるファクトチェック
 ネットを検索すると、松野官房長官の「(関東大震災での朝鮮人虐殺)事実関係を把握する記録は政府内に見当たらない」は不正確という記事が見つかった。以下、この記事による。
https://factcheckcenter.jp/n/nb3f98f67de27

 

 内閣府が2009年に関東大震災の詳細を記した「災害教訓の継承に関する専門調査会 報告書」を公表していて、その4章「混乱による被害の拡大」の2節「殺傷事件の発生」に、次の記載があるという(これ以外にも、報告書には「官庁記録による殺傷事件被害死者数」という表や、公的機関が残した記録が多数掲載されているとのこと)。

 

===「災害教訓の継承に関する専門調査会 報告書」より引用=========
官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。加害者の形態は官憲によるものから官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様である。(中略) 殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1〜数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。
======================================

 

 これについて、松野官房長官は、翌31日の記者会見で次のように答えた。

「中央防災会議のもとに置かれた災害教訓の継承に関する専門調査会が、過去の災害教訓をまとめた報告書における記述を指すものに関することでございますけれども、従来から国会質問や質問主意書に対してお答えしている通り、当該記述は有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではありません」

 

 政府(内閣府)が公表した報告書について、「有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではありません」と言うとは、呆れると同時に怒りが起こってきました。


 また、内務省警保局長からの「取り締まりに関する電信文」というのがあって、これは、関東大震災において朝鮮人が爆弾を所持したり、放火をしたりしているから取り締まるように各地方に送られたものだという。この電信文が、震災直後の朝鮮人に対する警戒心や憎悪を広げる一因となったのではないかと、福島みずほ参議院議員が国会で質問していた。

 

 これに対して、松野官房長官は、31日の同じ会見でこう述べた。

内務省警保局長から各地方長官宛に発出された『取り締まりに関する電信文』と承知をしておりますけれども、従前から、これも国会質問や主意書にお答えしてきている通り、その内容について政府内に事実関係を確認することのできる記録が見当たらないものと承知をしております」

 

 意味がよく分からない答弁だ。電信文は防衛研究所戦史研究センター史料室に保管していることが確認されているので、「記録が見当たらない」というのは、電信文の存在や内容のことではなく、それが「震災直後の朝鮮人に対する警戒心や憎悪を広げる一因となった」かどうかについてかもしれない。

 

 JFCの記事には、上記の専門調査会報告書第4章第2節「殺傷事件の発生」を執筆した鈴木淳教授(東京大学文学部日本史学研究室)の次のコメントも掲載している。

「『虐殺』というのは外からの評価なので、治安機関による殺傷の報告や、裁判での判決などで『虐殺』という言葉は使われていないと思います。そこで『虐殺事件に関する資料を出せ』というと『ない』と答える余地はあります」
「資料から直接言えるのは『殺傷事件』の存在であり、報告書で事件の中に虐殺としか言いようのないものが多いと書いていますが、それは私の評価で、委員会の合意を得て報告書に載った見解です」

 

 以上のような検証過程ののち、JFCはファクトチェックの「判定」として次の結論を出している。

「殺傷」に関する資料は間違いなくあったとしても、それが「虐殺」かどうかの評価はまた別で「虐殺」に関して「事実関係を確認することのできる記録が見当たらない」という返答はありうるかもしれない。
しかし、「記録が見当たらない」という発言は、殺傷に関する事実確認自体が不可能なほど記録がないという意味に受け取られる可能性が高く、不正確(ミスリード)と判定した。

 

 不正確(ミスリード)とは弱すぎる批判だと、私は思った。政府が公表した報告書を政府の見解の見解ではないと言うのは詭弁だし、殺傷事件はあってもそれが虐殺かどうかの記録はないというのが言い分だとしたら、これは「朝、ご飯を食べたが、それが朝食かどうかは評価の問題だ」という新たな「変形ご飯論法」だと思った。

 

●何故なのかを考えてみなければ(でもまた出来ていない)
 今回の松野官房長官に限らず、多くの自民党政府関係者や国会議員が、過去の日本の不名誉な出来事について、今は当時の政府や社会のありかたから全く変わっているはずなのに、なぜできるだけなかったことにしたがるのか、私にはうまく説明できない。歴史修正主義という言葉で批判される動きだが、そうすることのその彼らにとっての利益と彼らの心理がどういうものなのか。

 

 彼ら自身の心からの思いなのか、それとも彼らを支持する人たちのある部分の思いを代弁することが利益になるからなのか。考えてみなければ、と思いながら、まだ考えることができないでいる。

 

●最後に
 明治以来の3つの大震災を比べた資料を貼っておく。

 

 この表をみて思うこともあるが、軽々しくコメントすることは避ける。
 多くの亡くなった人達に深く哀悼の意を表することだけにしたい。合掌。

 

NHK受信料について

 テレビは観ない。だから家にテレビはない。それで、NHK受信料は私には直接関係がない。しかし昔は、テレビを観ていた時期もあったので、その時にはNHK受信料について考えた。そんなことは忘れていたが、29日に、NHKのインターネット配信にからんで視聴者に負担金を求めるという報道があって、またNHK受信料について考えるはめになってしまった。PCやスマホを持っているだけでNHK受信料を払えと言われるのか?
 報道された記事を読むと、NHKのネット放送を観たい人にだけアプリをダウンロードさせて料金を徴収する、ということなので、テレビ受像機を持っているだけで受信料を払わせようとしているテレビ放送とは考え方が違うようだ。しかし。先行きどうなるかは分からない。そんなわけで、またNHK受信料について考えることになった。

 

総務省がまとめた「NHKのインターネット業務の利用者の一部に負担金を求める提言案」
 総務省が8月29日にまとめた提言案のポイントは次の内容とのこと。
 ※日本経済新聞のネット記事(「NHKネット配信を必須業務化、視聴者に負担金 総務省案」より引用

 

 日経の記事によると、提言案は「テレビなどの受信設備を持たずにネットを通じて視聴する者に対して相応の費用の負担を求めることが適当」と言っているが、負担金はスマートフォンやパソコンなどを保有しただけでは求めす、ネット番組の視聴に際して①アプリのダウンロード②IDやパスワードの取得・入力③一定期間の試用や利用約款への同意――といった行為を条件とする考え方になっている。しかし、「災害時の緊急情報や重大事件など緊急度が高く、広く提供すべき情報は負担金を払っていないネット視聴者にも提供する必要があるとの見解も示唆した」とのことなので、NHKのネット放送について次のような可能性があると私は考えた。

 

1.ネット放送を「希望者のみ観る放送」と「国民すべてに必要な放送」に分ける
2.「希望者のみ観る放送」は料金を払った人だけが視聴できる
3.「国民すべてに必要な放送」は誰でも視聴できるが、料金は次のいずれかにする
 (A)ラジオ放送と同じように無料とする
 (B)テレビの受信契約がないPC・スマホ保有者から受信料をとる
 (C)PC・スマホ保有者すべてから受信料をとる

 

 ラジオ放送も昔は受信料をとっていたことや、全国の世帯の7割以上がすでにテレビの受信料を払っていることを考えると、(B)の可能性が最も高いように思う。もしそうなれば、私も払えと言われてしまう。もちろん、これは私の勝手な想像だ。

 

 「総務省放送法改正案を来年の通常国会に提出する見通し」とのことなので、来年の国会で審議されることになるが、もし私の想像通りである場合に反対の声が大きくなるだろうか。テレビ受信料を払っていない世帯は3割以下で若者の単身世帯が多いと思われることこと、その若者の政治に関する関心が低いこと、与党の自民・公明だけでなく維新・国民は反対しない(立憲は日和るし、反対するだろう社民・れいわ・共産は超弱小)と想像されること、そしてそれらの政党に投票している人が多数であること(投票しない人は政治への関心が薄い)を考えると、法案は通ってしまうように思えてならない。

 

NHK受信料について考えたこと
 NHK受信料について考えるのは今回が初めてではない。最初はもちろんテレビを観ていた時期だ。NHK訪問員が時々来て、受信契約しろと言うので考えざるを得なかった。次に考えたのは、「NHKをぶっ壊す!」とか叫ぶ政党が世間を騒がせた時。そして今回で3回目。(第2次安倍政権になって、百田尚樹が経営委員になったり、籾井会長の発言が物議をかもしたりした時にもNHKについて考えたが、その時は受信料について考えたわけではない。さらに、今年になって放送法解釈変更が国会で取り上げられ、政府・自民党からNHKを含む放送局への圧力と放送局側の忖度が問題になって、私も色々考えたが、その時も受信料のことは考えていなかった。)

 

 テレビを持っていた時は、NHKも観ていたが受信料は払いたくなかった。単にケチなため(お金がもったいない)から。それでも、NHK訪問員を追い返すために、理屈が必要なので放送法を調べた。NHKの放送を受信することのできる受信設備(テレビ)を設置した者は受信契約を締結しなければならないとあり、テレビの設置→受信契約の義務→受信料支払いの義務、という構造になっていることが分かった。なので、受信契約の義務を無視すれば受信料は払わなくてよい。受信契約をしなかった場合の受信料割り増しについての規定はあるが、そもそも受信契約をしなかった場合の罰則はない。それを確認して、NHK訪問員には「契約したくない、(契約は放送法で決められた義務だと言うので)放送法はおかしいと思うので従わない」と言って追い返していた。当時は、刑事上の罰則がなくても法律に違反すれば民事裁判で訴えられる可能性があることに思いが至らなかった。

 

 「NHKをぶっ壊す!」と叫ぶ政党(名前がころころ変わって面倒なので以下「N党」と略す)が存在感を増した時には、NHKの存在が必要かどうかなどの議論が少しだけネットにも出ていたので、もうテレビを観なくなっていたが、私も少し考えた。その時考えたのは、災害などの迅速で正確な情報提供や、企業からの独立性(広告収入に依存しない)を保った報道を行う民放でない放送局は必要だろうということ。しかし、NHKはいろんなことをやっている。娯楽番組やスポーツ番組は民放でもさんざんやっているので必要ないだろう、もし必要と思う人がいればその人たちだけ別にお金を払って観る形にすればよい。では、科学・文化・芸術や教育番組はどうするのか。この分野では昔は僕もNHKの番組をよく観ていて、上質な番組が多かった印象が強い。これらは、本質的に費用対収入を常に考えている民放では無理だろう。てなことを考えて、NHKは公共放送局として残す部分と民営化する部分に分割するのがいいと思った。民営化する部分は、自分で収入を得る方法を考える(利用者から料金を取るなり、広告を取るなりすればいい)として、公共放送局の費用はどうするか。その問題を私は以下のように考えた。

 

 今でもNHKは公共放送だと言っている。公共と言うのは、広く国民全体にとって必要なものという意味だろう。公共サービスは税金によって賄われるのが基本だ。ではなぜ、NHKは税金でなく受信料で賄われるようになっているのか。税金によって賄われると政府からの独立性が損なわれるといったことを言う人がいるが、そんなことを言えば税金によって裁判官に給与が支払われる司法の独立性は担保出来ないことになってしまう。税金によって賄われることが問題なのではなく、組織(人事を含む)や運営を政府から独立させる法的仕組みの問題だ。すると、税金で賄われない本当の目的は何か。私はここで、所得税累進課税であり、また国民だけでなく企業も税金を払うことに思い至った。要は税金で賄うということは、企業も負担し金持ちはより多く負担するということだ。一方、税金でなく利用者負担(受信料はこの考え方)とすることは、収入に関係なく皆んな同じ金額を負担するということだ。こうすると、収入が少ない人ほど重い負担になることは明らかだ。逆に言えば、NHK受信料という制度は、企業と金持ちの負担を貧乏人並にするというものだ。
 
 公共放送が広く国民全体にとって必要な公共サービスであるのならば、税金によって運営されるべきだ。そのために、税金の総額が増えてもいい。その税金は支払い能力に応じて行われるものだから。これが、公平ということだろう。このように考えたのが、N党が世間を騒がせた時の私の結論だった。その後、これを切っ掛けとして、私はすべての公共サービスについて、同様に考えるようになっていった。
 
 3回目の今回考えたことは、今後のネット放送の受信料のことだけだ(既に上述した)。現在の放送についての受信料については、N党が世間を騒がせた時の私の結論から変わっていない。


●補足(蛇足)
・テレビを持っていた時に、罰則がないのをいいことにして法律に従わない自分の態度に少し後ろめたさを感じていたのは事実だ。それで、最近になって、ある有名な人間(インフルエンサーというのかタレントというのかは知らないが)が、裁判で多額の賠償金支払いを命じられながら刑事罰がないことを理由に公然と支払わないことを言い、そんな人間をメディアが重用していることを知って驚いた。かっての私のような後ろめたさは感じないようだし、そんな人間を非難する人が少数であるのが今の社会のようだ。

 

・「N党」の時に、「企業からの独立性(広告収入に依存しない)を保った報道を行う民放でない放送局は必要」と考えたが、企業からの独立性を担保するには広告だけでなく、出演者を提供する企業への依存も問題であることが、「ジャニーズ問題」により私にも明らかになった。当時、思いが至らなかったことを恥じる。

 

・公共サービスは税金で賄うべし、という私の考えは、その後さらに進化(?)を遂げていて、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」(憲法25条)ことはすべて税金で賄われる公共サービスによって実施されるのが良い(すなわちすべて無料)というところまで来ている。
 最低限度の量と質の見定めが難しいが、生きてゆくために必要な食料、住居、衣類、雑多な生活用品、医療、電気、ガス、水道、通信、交通、運輸はすべて無料(文化的なものの何を最低限度とするのかという問題はまだ考えていない)。こうすると、税金は非常に高いものになるだろう。しかし、誰でもが生きていくために必要なものがすべて無料なのだから、税金を払った残りのお金は必要なものの量や質を人並より増やすか、文化的により高度なものを求めるかにしか使う必要がない。そうなれば、普通の人はそんなに多くお金が残っている必要はないだろうと思う。
 しかし、よりよく生きたいというのは人間の本姓なので収入が多いほど並の暮らしより良い暮らしができることは必要だ。また多い収入を得たいと思う人の働きによって社会が進歩してゆく側面があることも事実だ。だが、多い人の手取り収入が平均的な手取り収入の何万倍もある状況でなければ社会の進歩がないとは思えない。徹底的な累進課税と手取り収入の上限設定という税金制度が、圧倒的に多くの人にとって望ましいことだと思っている。
 こんな夢みたいな(金持ちにとっては「悪夢」か)ことも考えて見たりしています。
 

図書館の貸出サービスと「街の本屋さん」について

 新聞に「図書館の人気本所蔵どこまで 自民議連「書店支援」提言 国が議論へ」という記事が出ていた。図書館はよく利用するし、本を読むのは好きな方なので興味を持って読んだ。記事は、議連の提言を受けて、経営が厳しい書店を支援するために公立図書館での本の購入にルールが必要か国が議論を始めるとして、図書館の貸し出しの実態をレポートししていた。特に、図書館が利用者が多い本を複数所蔵することについて、実情が詳しく書かれていた。

 

議員連盟の提言のうち図書館に関するもの
 ネットで、議員連盟(「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟」)が出した提言というのを探したが、報道記事は沢山あるものの提言そのものは見つからなかった。しかし、議員連盟が昨年11月2日に開いた総会の様子を報じた記事(全国書店新聞令和4年12月1日号)に、議連で検討する主要テーマや書店側の要望が書かれてたので、提言の内容は大体類推できた。テーマや要望はいろいろあって、他に気になることもあるが、ここでは図書館に関することだけ書く。

 

 議連の齋藤健幹事長が挙げた主要テーマのうちの一つに「②公共図書館問題(ベストセラーの過度な複数蔵書、著者権利の保護)」があり、書店側の要望の一つに「③書店と図書館共存・共栄のための環境整備」があった。要望の③については、もう少し詳しく、次のように書かれていた。

 

   ③書店と図書館共存・共栄のための環境整備では、永年出版界と図書館界での
  懸案となっている「複本」や「新刊本の貸出不可期間」について一定のルールを
  設ける必要がある、原稿図書館法第7条の2にある「公立図書館の設置及び
  運営上の望ましい基準」を書店との共存も含めた内容に改正する必要がある、
  「図書館蔵書等における地元書店からの優先購入」等の措置が不可欠

 

 これを読むと、書店との関係で図書館について問題視しているのは、(a)過度な複数蔵書(「複本」)、(b)新刊本をすぐに貸し出していること、(c)本の購入先、であることが分かる。しかし、(c)について本の購入先を地元書店優先にして欲しいということ以外は、(a)も(b)も図書館のサービスによって直接的に影響を受ける(販売部数が減る)のは出版社であり、販売部数が増えてもそれが中小の地元書店の販売につながるかは疑問だと思った。

 

 この疑問をきっかけにして、いろいろと考えることになった。

 

●図書館の貸出サービスについて
 本の著者や出版社が、図書館の貸出を売上減少の要因の一つとして批判する気持ちは分かる。書店も図書館の貸出を本が売れない原因の一つと考えていつことも理解できる。しかし、そもそも図書館の貸出サービスは悪なのだろうか。いや、もっと根本的に、物の貸出ということから考えてみたい。

 

 世の中ではいろんな物が売られている。そして、その物を買った人は自由に人に貸したりできる。個人間の貸し借りだけでなく、いろんな物のレンタルサービスだってある。ではなぜ、本の貸出が問題になるのか。これは本が著作物だからです。著作権の一部に貸与権があり、著作権者が「貸与により公衆に提供する権利」を持っているのです。従って、著作権者の許可なく本の貸出は出来ないはず。しかし、これには例外があり、著作権法には「営利を目的とせず」「料金を受けない場合には」「貸与により公衆に提供することができる」と定められています。図書館の貸出サービスはまさにこのケースに当てはまるため、法律的には問題はありません。

 

 なぜ、無料で公衆に提供する場合は自由にできるようにしているのか。著作権という考え方の中にその理由があると思います。著作権は、著作権の対象となっている著作物(「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」)並びに「実演、レコード、放送及び有線放送」が、人類の文化的な成果物であり、文化の発展を助けるためには、著作物を創作する者(著作権者)の保護が必要だという考えに基づいています。しかし、文化の発展を助けるためには、それらの成果物が広く利用されることも必要です。そのため、「著作権者の保護」と「著作物等の利用」との間のバランスをとる必要がある。著作権法は、著作権者の許可なく利用できる範囲を定めて、そのバランスをとっているわけです。

 しかし、そのバランスのとり方は不変ではなく、時代とともに変化して来ています。実際、著作権法貸与権というものが定められたのは1984年になってから(1980年頃から急成長したレンタルレコード業が著作者等へ大きな経済的影響を与えたことを受けての法改正)で、その時には書籍・雑誌の貸与には、当分の間、貸与権は適用しないものとされました。その後、2002年頃からマンガ喫茶やレンタル店によるコミック本の大量流通が問題になって、2004年6月の著作権法改正で書籍・雑誌についても貸与権が適用されるようになったという経緯があります。
 この経緯を見てもわかるように、「著作権者の保護」と「著作物等の利用」との間のバランスは、著作権者と著作物を流通させる業界の圧力によって、だんだんと「著作権者の保護」を強める方向に移ってきているように思われます。これまでは、有料での貸出(レンタル業)への著作権者側の権利拡大でしたが、今後、無料での貸出にまで権利拡大が及ぶかもしれません(非営利無料の貸出でも映画については既に著作権法著作権者の許可が必要になっています)。著作権法を改正しなくても、図書館の貸出を有料化すれば著作権者の許可が必要になるので、出版業界はその方向で圧力を強める可能性もあります。

 

 今回、図書館の貸出サービスが、業界→自民党→政府での検討、という流れて俎上に上がったので、放っておくと業界の利益だけが優先されかねません。一方、図書館組織や広範な市民からの反発も予想されますが、出版文化を維持発展させるために必要なことを考えるのは重要なことなので、やみくもに反対すればいいとは思いません。このことについて、今日考えた範囲での私の意見は以下です。

 

 ・図書館の貸出サービスの有料化には反対
  (これは公共サービスは無料であるべきという私の原則的思いによる。
   税金でカバーすべきものと受益者負担すべきものの考え方については、
   機会があれば別途書きます。)
 ・図書館の貸出について著作権者側に対価を払うことは検討の余地がある
  但し、出版文化を維持発展させるため考えるべきであって、
  充分儲かっている人・業者をより儲けさせる必要はなく、
  苦しい状態で出版している人・業者を支援する仕組みであるべき
  (具体的には、図書館で購入した1冊目についてのみ対価を払うのがよいかな)

 

●図書館の貸出サービスが出版業界に与える影響
 図書館の貸出サービスにより、出版業界はどのくらい被害(売上の減少)を受けているのだろう。この判断はなかなか難しい。ネットで検索して、いくつかの記事や論評や論文を読んでみたが、正直言ってよく分からない。なので、以下はそれからから私が受けた印象に過ぎないが、思ったことを書いてみる。

 

 まず、思ったのは、立場の違いによって言っていることがかなり違うということ。図書館関係の人は、「図書館の貸出が出版の売上に与える影響はほとんどない」といい、出版関係の人は「図書館の貸出が出版の売上に影響している」と言ってる。どちらも、それそれデータを分析しているが、図書館関係の人は書籍全体についてかなり詳細に分析しているのに対して、出版関係の人は書籍全体の分析は大雑把で、それよりも特定の種類の本(売れ筋の本)に着目して分析する傾向が強いと感じた。これは、図書館は多くの人に読まれる小説などだけでなく学術書なども含めて書籍のことを考えているが、出版側は多量に販売している大手出版社の声が大きく彼らの売上を支える種類の本に関心が高いからだろう(専門書を出す中小出版社は別の意見があるかもしれないが声が小さい)と思った。
 また、論文ではなく雑誌や新聞の記事では出版側の言い分を取り上げて補足的に図書館側の事情を書くといったものがほとんどだったが、これは雑誌や新聞(特に新聞)は出版物の広告に大きく依存しているためだろうと想像した。

 

 こういう事情を踏まえた上で、私が一番状況をつかみやすいと思ったのは、「図書館の所蔵又は貸出が出版物の売上に与える影響に関する研究動向」という論文(研究レビュー)だった。この論文(一部他の論文も)から私が理解したことは以下。
→参照先 https://current.ndl.go.jp/ca2038

 

  1.出版(書籍・雑誌)の販売金額は1996年をピークに以降減少が続いている
    (2021年はピークの45%しかない。販売部数で見ると、落ち込みはもっと
     大きく、2021はピークの1995年の29%しかない。)
  2.図書館の貸出冊数は2011年度まで一貫して増加し、以降は若干減少傾向にある
  3.図書館の年間受入冊数は2013年以降減少傾向にあり、館数が増えてきている
    ので、1館当たりではかなり明確に減少している
    (これは、図書館予算が1998年度をピークとして2011年度までほぼ毎年減少
     したあと横ばいになっているが、1冊当たりの価格が上昇しているため)
  4.公共図書館の貸出冊数と書籍販売(冊数、金額)の間にはほぼ相関がない
    (書籍全体についての話)
  5.文芸書ベストセラー・エンターテイメント系小説に限れば、公共図書館
    蔵書数が多い(貸出数が多い)と、新刊書籍の売上部数を減少させる
  6.経済状況の悪化は公共図書館の利用を増加させる

 

 このうち、5は私の図書館利用からも実感している。私の利用する図書館ではベストセラー小説は在庫が複数あるのが普通だが、いつも順番待ちが多数発生していて1年待ちはざらにある。それだけ、買わずに借りて読む人が多いということだ。一方、新聞の書評に載った本でも少し学術的な内容の本は、図書館で買ってくれないことも多く、購入してくれた場合は比較的すぐに借りられる。

 

●書籍の販売ルートと「街の本屋さん」への影響(本はどこで買うのか)
 人気のある本(=売れ筋の本)については、図書館の貸出サービスの影響で販売部数が減っていることは分かった。それで、図書館の貸出がなければ売れるはずだった本は、どこで買われるはずだったのか。それを考えないと「街の本屋さん」に影響があるかどうか分からない。なんで、街の本屋なのか。自民党の議連が「街の本屋さんを元気にして・・・」となってたからです。

※図書館で借りられないなら買わないという人もいるが、書店の販売減少を考えるには借りられなかったら買う人だけを対象にすればよい

 

 まず、書籍の販売ルートを考えてみる。自分で考えるよりネットで調べる方が早い。出版科学研究所のサイトに「日本の出版流通の特徴と主な流通ルート」という記事があったのでこれを使う。
https://shuppankagaku.com/knowledge/market_route/
 主な流通ルートとして7つのルートが挙げられているが、考えたいのは「図書館の貸出がなければ売れるはずだった本」のことだから、図書館が買う「図書館ルート」と図書館では借りない「教科書ルート」は関係ない。それに、問題は読者がどこで買うかなので、途中の流通業者(取次、即売業者、専門取次、代理店)はありなしを含めてまとめて書くと次の5ルートになる。

 

   〇取次・書店ルート
    出版社→(取次)→→→→→→→ 書店 →読者

   〇CVSルート
    出版社→(取次、即売業者)→コンビニ→読者
   〇ネット書店・宅配ルート
    出版社→(取次ありなし)→ネット書店→読者
   〇生協ルート
    出版社→(取次、専門取次)→ 生協 →読者
   〇直販ルート
    出版社→→→→→→→→→→→→→→→→→→読者
    出版社→(代理店ありなし)→ 書店 →読者

 

 これを、本をどこから買うかという観点で見ると、①書店、②コンビニ、②生協、④ネット書店、⑤出版社の5つ。それに、新本じゃなく中古を買う人もいるから⑥中古品購入(店舗・ネット店・メルカリ等)が加わる。「街の本屋」はもちろん書店だから、「街の本屋」に影響があるかどうかは、図書館の貸出がなければ①書店で買っただろう人のことだけ考えればよい。そんなことは初めから分かっているのに②~⑥まで書いたのは、本の購入ルートが書店以外に沢山あることをはっきりさせたかったからです。問題にしているのは売れ筋の本なので、そういう本はほぼ雑誌しか置いていない②コンビニを除いてどこでも買えるだろう。

 

 そこで、一般的に書籍はどこで買われるのかを調べた。またネット検索。するとこんなデータが見つかった。

 これは、15歳から69歳の男女5,000人を対象に、書籍を購入したことがある場所を聞いた複数回答可)アンケート調査の結果だが、一般的な傾向を知るのには充分だろう。私の予想に反して、「街中などの書店」が最も多い(私はオンライン書店が一番多いと予想していた)。

 今は図書館で借りられれば借りるが、借りられなかったから本を買う人のことを考えているので、図書館で借りる人はお金の節約傾向が強いと思われることや、売れ筋の本(人気のある本)に限れば読めるまで長く待つことを厭わない人であることを考慮すると、一般的な傾向より⑥中古品購入(店舗・ネット店・メルカリ等)が多いと想像される。しかし、このデータを見るとそれでも「街中などの書店」が最も多いことには変わりなさそうだ。

 

 ここまでくると、人気のある本(=売れ筋の本)については、図書館の貸出サービスが「街中などの書店」の販売にかなり影響しているだろう、と私にも思われた。但し、都会に住む人にとっては「街中などの書店」というのはジュンク堂紀伊國屋などの大型書店が含まれていて(むしろそちらが多そう)、「街の本屋さん」という言葉でイメージされる中小書店とはかなり異なると考える方がよいと思った。
自民党の議連が「街の本屋さんを元気にして・・・」と名乗るのは、やろうとしていることが中小書店に限らずむしろ大きな書店に大きなメリットがあるのに、中小書店支援であるように思わせるイメージ戦略のような気がする。

 

 「街の本屋さん」を中小書店と考えるとそれらの書店は、もともと大型書店やネット書店やコンビニの雑誌販売に売り上げを奪われて経営が苦しくなり、数が少なくなってきている。そのことを前提にすれば、図書館の貸出が「街の本屋さん」に与える影響は、ある程度大きいとしてもそれが経営を左右する主要因ではない、と私は考えます。

 

●なぜ、中小書店がつぶれることを問題にするのか
 時代の変化により、過去には沢山売れていたものが需要減少(や消失)によりほとんど(または全く)売れなくなったり、販売ルートの変化により買われる場所が変わったりすることはきりがないほど多く存在する。それによってつぶれていった(つぶれてゆく)中小小売店は非常に多い。特に、買われる場所が大型店やチェーン店に変化することによる中小小売店の淘汰は激しいものがある(私はこれを必ずしも良しとしないが、政府は大型店規制を緩めるなどしてむしろそれを促進してきたと思う)。

 

 では、書店だけなぜつぶれることを問題にするのか? 書店が販売する書籍や雑誌などが文化の発展や社会の情報流通に必要不可欠なものであるからだ。しかし、それは直ちに中小書店がつぶれることを問題にする理由にはならない。なぜなら、その不可欠なものを守るためには書籍や雑誌が出版され、どんなルートであろうときちんと販売ルートが確保されていればいいのだから(必ずしも中小書店で販売される必要はない)。

 

 中小書店がつぶれるのが問題なのは、2つの場合しかないように思う。一つは、地方で中小書店しかなく、それがなくなるとコンビニの雑誌を除くとネット書店か出版社に直接連絡して買うしかなくなるが、それに慣れていない高齢者のことを考える場合(この場合は、買わなくても読めればいいのであればむしろ公共図書館の貸出サービスが助けになる)。もう一つは、中小書店が多様な書籍から住民が関心のある書籍を選ぶのに役立っている場合だ。中小書店は売り場が狭いので沢山の本を置いて住民が幅広く選べるようにすることはできない。従ってこれは、ある特定の分野の本や特定の傾向の本を店主が選んで並べている特色のある書店の場合だけだろう。


 ネットに慣れていない高齢者などに対しては、そのために中小書店を残すことを考えるより、ネットの導入も含めてその使い方を教える公共サービスを充実させる方がはるかに有益だと思う。
 
●街の本屋の未来を考える
 中小書店のこれからの存在意義は、ある特定の分野の本や特定の傾向の本を店主が選んで並べている特色のある書店であることに移ってゆくだろうと私は考えた。そういう書店の問題は、店舗の狭さから多くの本を並べられないことと、分野や傾向を絞っているため充分な販売量を確保するには広い商圏が必要なことだ。これら2つの問題を解決するには、店舗に本を並べることに加えて(あるいは店舗を持たずに)ネット上で店主の選んだ本を並べて販売することだろう。
 従って、それらの中小書店を支援するには、ネットでそのような販売が簡単にできるようなプラットフォームを用意したり、それらの中小ネット本屋を幅広く案内する仕組みが必要だと思う。これらの支援こそ、国や地方の公共団体が行うべきことだろう。

 

中国が日本産水産物の輸入を全面停止したことについて考える

 8月24日に、福島からトリチウムなどの放射性物質を含む処理水の海洋放出が始まった。これを受けて、中国は即日、日本産水産物の輸入を全面停止する措置を取った。これに対して、日本政府は中国のこの措置を強く非難した。一方、処理水の海洋放出については、野党などから日本政府を批判する声が上がっている。この政府批判に対する批判をする人も現れている。これらのことについて、わからないことを調べながら、自分なりに考えてみたい。

 

●処理水とはどういうものか?
 福島第一原子力発電所では事故後、放射性物質を含む「汚染水」が発生し続けているので、その汚染水から有害な放射性物質を出来るだけ取り除く処理をしている。その処理された水が「処理水」だ。

 

 そもそも何故、事故後12年以上も経ってもなお、「汚染水」が発生し続けているのか。汚染水は、原子炉内で溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)やそこから原子炉建屋内に放出される放射性物質に触れることにより汚染された水だ。そのような水はなぜ生じるのか。大きく分けて2つの要因がある。
  (1)原子炉内の燃料デブリを冷やすため水を注入していること
  (2)原子炉建屋内に流れ込む地下水や雨水があること

 

 もともと、原子力発電は核燃料から発生する熱で水を沸かして蒸気を作り、その蒸気の力でタービンを回して電気を起こす仕組みなので、原子炉と発電機の間で水を循環させている。その水は非常に高いレベルの放射性物質で汚染されているが、循環させることでその水が外部に出ないようになっている。水を循環させるために、発電機のタービンを回したあとの蒸気を冷却水(海水)で冷やして水に戻しているので、冷却水も放射性物質で汚染されるがその汚染レベルは低く抑えられている。そのため、冷却水として使うため海から取り込んだ水は、使ったあと海に放出していた。これが通常運転の状態だ。
 ところが、福島第一原発では、東日本大震災とそれに伴う津波により、最高レベル(レベル7)の事故が起こり、原子炉の核燃料が原子炉圧力容器の底に落ちる炉心溶融メルトダウン)、さらに圧力容器の外側の原子炉格納容器にまで漏れ出した(メルトスルー)。また、メルトダウンの影響で水素が大量発生して水素爆発を起こし、原子炉建屋および周辺施設が大破した。核燃料は事故後も非常に大きい熱を出し続けるので、これを冷やさないとまた水蒸気爆発などが起こり広範囲に高レベル放射性物質がまき散らされることになる。従って(1)は必須です。

 

 (2)については、建屋が壊れているので雨水が入ってくることは容易に想像できるが、地下水が大きな問題であることは、私は今回調べてみて初めて知りました。実は、福島第一原発の敷地はもともと海抜35mの台地で地下水の豊富なところだったが、その台地を掘り下げて発電所を建設したため、建設当初から地下水の処理が大きな課題でした。原発完成後も、建屋への地下水の流入を防ぐため、建屋の周囲に立て坑を60本近く掘り、事故前も1日800tを超える地下水をくみ上げて海に流していたようです(建屋への流入前に汲み上げているので、これはほとんど汚染されていない)。事故直後は、立て坑が放射性物質が付着したがれきで埋まったため、建屋地下には1日400tの地下水が流入して、核燃料を冷やした後の高濃度汚染水と混じり多量の汚染水が発生していたようです。
→(参考)東京新聞の2013年9月の記事 https://www.tokyo-np.co.jp/article/236982

 

 事故のあと、国と東電は10年以上に渡って、(1)による高濃度汚染水を浄化後に再び冷却に使うことにより循環させたり、(2)の地下水流入を防ぐために建屋の前(陸側)に壁(凍土壁)を作り、地下水をくみ上げる井戸(サブドレン)も作ったりして、出来るだけ発生する汚染水を減らす努力をしてきました。しかし、地下水の流入を完全に止めることは出来ず、現在でも1日130t程度の汚染水が発生しています。東電の資料(2021年6月25日付「福島第一原子力発電所の汚染水処理対策の状況」)を見ると、130tのうち8割近く(約100t)は建屋に流入している地下水(雨水は少ないと想定)によるものであることが分かります。だから、地下水が最大の問題なのです。このようにして発生した汚染水は、当然そのまま海に流すことはできないので、海側に遮水壁を作って敷地から出ないようにしています。

 

 毎日外から流入した水で汚染水が発生しそれを外に出せないとしたら、敷地内にはどんどん汚染水が貯まっていきます。発生したままの汚染水は非常に危険なので、そこに含まれる放射性物質を多核種除去設備(ALPS)で出来るだけ除去処理した上で、敷地内のタンクに保存しています。「処理水」(ALPS処理水)というのはこのタンクに溜められた水のことです(発生する汚染水1日130tにALPS浄化時薬液10tが注入されるため「処理水」の発生量は1日140tになります)。構内に設置されたタンクは約1000基ある(その容量は137万t)が、すでにその9割に「処理水」が貯まっています。その結果、敷地内に同じ方法でこのまま溜め続けることが出来なくなってきているので、別の解決方法を考える必要があります。ここまでは、誰もが認めざるを得ない事実だと思います。

 

 汚染水には多くの種類(核種)の放射性物質が含まれているが、ALPSではそのうち62核種を対象として除去処理を行っている。この62核種は、処理後の水が環境へ漏えいした場合の人間への放射線被ばくのリスクを考えて、汚染水に含まれる核種の推定濃度が国の基準(告示濃度限度)に対し 1/100 を超える核種が選ばれている(1/100という値は選んだ核種をすべて1/100以下にした場合に、選ばなかった核種を含めても全体として基準を満たすだろうという考えによる)。ただし、ここで一つ例外があり、トリチウム(普通の水素に中性子が2つ加わった放射性物質)だけは対象から外されている。これは、トリチウムが水分子の一部になって存在して除去が困難であるためであるが、その結果、ALPS処理水に含まれるトリチウムは国の基準を超えている状態のまま残っている。実際、東電の資料(2018年10月1日付「多核種除去設備等処理水の性状について」)を見ると、トリチウムを除く核種の合計は基準値を下回っているが、トリチウムは基準値を超えていることが分かる。これが、国や東電も報道機関もトリチウムにこだわって処理水のことを語っている理由だ。

 

 処理水はトリチウムを別にしても放射性物質を完全に取り除いているわけではない(それは不可能だ)。国や東電が「処理水」と言っているのは、処理された水という意味では正しい表現だが、トリチウムを含めて放射性物質がまだ残っている(すなわち汚染されている)という意味で「汚染水」と呼ぶことも可能だ。そのため、国や東電の言うことを受け入れている人は「処理水」と呼び、国や東電を批判する人は「汚染水」と呼ぶという言葉の違いが生じている。

 

 また、現在敷地内のタンクに保管されている水は、トリチウム以外の放射性物質も国の基準値を超えて残っているものが多い(約7割)という事実がある。これは、「ALPSの運用当初は、処理水が規制基準を満たすことよりも、敷地内の放射物質濃度の低減を優先して処理していたため」だ(東電の「処理水ポータルサイト」の「Q&A」による)。この「処理途上水」は今後再浄化処理を行って「トリチウム以外の放射性物質が規制基準を満たすまで取り除く」と東電は書いているが、こうした事実もあって、国や東電を批判する人が「汚染水」と呼ぶ理由の一つになっている。
 なお、これらのことを踏まえて、国(資源エネルギー庁)は2021年4月に、タンクに保管されている水全部をALPS処理水と呼ぶことをやめ、「トリチウム以外の核種について、環境放出の際の規制基準を満たす水のみをALPS処理水と呼称する」として、ALPS処理水の定義を変更しました。
https://www.meti.go.jp/press/2021/04/20210413001/20210413001.html

 

 さらに、国や東電を批判する一部の人は、東電が発表しているALPS処理後の水の放射性物質の値を疑っていたりする。それにはそれなりの理由があるらしいのだが、その真偽を確かめるのは大変だし、さすがに東電も公表する数値をごまかすところまではやらないだろうと思うので、私はそこまで疑うことはしない。
 

●処理水の海洋放出について
 溜まり続ける処理水の処分方法については、「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会(ALPS小委員会)」で2016年11月から3年以上に渡って検討が行われ、2020年2月に45ページの報告書が公表された。その報告書を詳細に読み込むことは私の能力を超えるが、飛ばし飛ばし読んでみた範囲で理解した内容などを以下に書いてみたい

→報告書 https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/018_00_01.pdf

 

 実は、処理水の処分方法については、ALPS小委員会より前に、「汚染水処理対策委員会」の下に設置された「トリチウム水タスクフォース」で2013年12月から検討が行われていて、2016年6月に報告書を取りまとめている。ALPS小委員会では「トリチウム水タスクフォース」のこの報告書を踏まえて検討を行っている。
→タスクフォース報告書 https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/tritium_tusk/pdf/160603_01.pdf

 

 「トリチウム水タスクフォース」では、トリチウム水の処分方法(「長期的な取扱い方法」と呼んでいる)として次の5つの方法を選び、前処理なし、希釈、同位体分離と組み合わせることで得られる以下の11の選択肢に整理して、各方法について評価を行っていた。

 

  ・地層注入(前処理なし/希釈後/分離後)
   ※圧縮機を利用し、深い地層中(深度2,500m)に注入する
  ・海洋放出(希釈後/分離後)
   ※海洋に放出する
  ・水蒸気放出(前処理なし/希釈後/分離後)
   ※蒸発処理し、高温水蒸気として、排気筒から大気に放出する
  ・水素放出(前処理なし/分離後))
   ※電気分解によって水素に還元し、大気に放出する。
  ・地下埋設(前処理なし)
   ※セメント系等の固形化材を混ぜ、コンクリートピット等の区画内に埋設する

 

 評価項目としては、基本要件として技術的成立性と規制成立性(既存の規制との関係)をあげ、制約となりうる条件として期間、コスト、その他(処分に必要な面積、二次廃棄物、作業員被ばく、他)をあげていた。タスクフォースは、技術的な評価を行うことを目的としていた(報告書には「関係者間の意見調整や選択肢の一本化を行うものではない」と書かれている)ため、5つの方法のどれにすべきかといった結論は出していない。また、タスクフォースの名前からはわかるように、放射性物質としてはトリチウムのみを念頭に置いて検討されたこと(報告書には「トリチウム以外の核種は多核種除去設備等により別途除去されることを前提としている」と書かれている)にも、注意する必要があるかもしれないと思った。

 

 ALPS小委員会の報告書では、先ず「トリチウム水タスクフォース」での検討結果を簡単にまとめたあと、処理水の処分方法の検討の前に、タンク保管容量の拡大について(敷地外への移送・保管及び敷地の拡大を含む)およびタンク保管の継続可能性について検討を行っている。そして、保管容量の拡大はいずれの方法も(可能だとしても)「相当な時間を要する」などとして排除し、タンク保管を長期間に渡って継続してゆくことは困難であることを示唆している。タンク保管の継続可能性の検討の前提として、処理水の処分は廃炉作業の一環であり、30年~40年後と想定される廃炉作業の完了までに処理水の処分を終える必要があることをあげている。

 

 この点については、海洋放出に反対する国際環境NGOグリーンピースなどは、(燃料デブリの取り出しなど遅々として進まない廃炉作業と切り離して考えれば)「福島第一原発の敷地内にも近隣地域にも、汚染水を長期的に保管するための十分なスペースがあります」と言って批判している。しかし、仮に廃炉作業を止めたとしても、汚染水を長期的にタンク保管することは遅かれ早かれできなくなると思うので、私はこの批判には賛同しない。

 

 ALPS小委員会の報告書は、このあと処理水の処分方法の検討をしている。私が驚いたのは、検討の初めに「風評への影響に配慮した検討を行うことが重要である」と述べ、風評への影響についても書かれていることだ。例えば、「処分の開始時期と風評への影響について」として、次のような記述もある。

   処分の開始時期が遅ければ遅い方が世の中の関心が小さくなり報道量も減り、
  風評への影響は少なくなる。また、報道機関を含め国民のトリチウムに関する
  理解が進むことが期待される。一方、処分が行われると新たな事象としての
  報道のインパクトは大きいので、処分を行う時期の検討が必要である。
 
   また、商業活動における売上高等においては、事故による経済的被害が
  残存しており売上高等が落ち込んでいる状況と復興が進み売上高等が
  戻りつつある状況では、処分時の売上高等の落ち幅は後者のほうが大きく
  なると考えられるが、後者のほうが事業者の体力が回復しており、
  風評による影響に耐えうることが期待される。

 

 しかし、処分方法を絞り込むにあたっては、結局のところ技術的な面に限定しているように思える。報告書最後の「まとめ」から引用すると以下。

 

   タスクフォースで検討された 5 つの処分方法のうち、地層注入については、
  適した用地を探す必要があり、モニタリング手法も確立されていない。
  水素放出については、前処理やスケール拡大等について、更なる技術開発が
  必要となる可能性がある。地下埋設については、固化時にトリチウムを含む
  水分が蒸発することや新たな規制設定が必要となる可能性、処分場の確保の
  必要がある。こうした課題をクリアするために必要な期間を見通すことは難しく、
  時間的な制約も考慮する必要があることから、地層注入、水素放出、地下埋設
  については、規制的、技術的、時間的な観点から現実的な選択肢としては
  課題が多く、技術的には、実績のある水蒸気放出及び海洋放出が現実的な
  選択肢である。

 

 このように書いて、処理水の処分方法を「水蒸気放出」と「海洋放出」の2つに絞り込んでいる。さらに、次のように書いているので、海洋放出の方を暗に推奨しているように私には思われた。

 

   水蒸気放出は、処分量は異なるが、事故炉で放射性物質を含む水蒸気の放出が
  行われた前例があり、通常炉でも、放出管理の基準値の設定はないものの、
  換気を行う際に管理された形で、放射性物質を含んだ水蒸気の放出を行っている。
  また、液体放射性廃棄物の処分を目的とし、液体の状態から気体の状態に
  蒸発させ、水蒸気放出を行った例は国内にはないことなどが留意点として
  あげられる。また、水蒸気放出では、ALPS 処理水に含まれるいくつかの核種は
  放出されず乾固して残ることが予想され、環境に放出する核種を減らせるが、
  残渣が放射性廃棄物となり残ることにも留意が必要である。

 

   海洋放出について、国内外の原子力施設において、トリチウムを含む
  液体放射性廃棄物が冷却用の海水等により希釈され、海洋等へ放出されている。
  これまでの通常炉で行われてきているという実績や放出設備の取扱いの容易さ、
  モニタリングのあり方も含めて、水蒸気放出に比べると、確実に実施できると
  考えられる。ただし、排水量トリチウム放出量の量的な関係は、
  福島第一原発の事故前と同等にはならないことが留意点としてあげられる。

 

 ここで、専門家が技術的に検討していることの是非を私が判断することは困難なので、ALPS小委員会の検討の詳細には踏み込まない。専門家でない一般人としては、もっと大括りに問題を捉えた方がよいと思う。そういう観点で私が考えたことを以下に書く。

 

 そもそも処理水の中に存在する放射性物質は、人工的に消滅させることはできない(物理研究者が行っているような巨大な実験設備を使って核分裂反応を起こすことは可能であるが、そんな方法を処理水に適用できるわけではないし、出来たとしても新たな放射性物質が生まれる可能性が高い)。多核種除去設備(ALPS)で除去しているというのは、放射性物質を消滅させているいるわけではなく、沈殿処理や吸着材による吸着などで水から分離しているに過ぎない(沈殿物や吸着材の中に放射性廃棄物として残る)。従って、放射性物質は自然に崩壊を起こして別の物質に変化するするのを待つしかない。

 

 放射性物質が自然崩壊し終わるまで、その物質をどこにどういう形で存在させるかについて、大きく分けて2つの考え方がある。一つは、出来るだけ狭い範囲に閉じ込めて人の生活環境から離しておくという考え方(地層注入や地下埋設はこの考え方)。もう一つは、出来るだけ広い範囲に散らばらせて人への影響を少なくするという考え方(海に拡散させる海洋放出や大気中に拡散させる水蒸気放出・水素放出がこの考え方)。前者は閉じ込めが完全でなければ環境への流失により環境を汚染する可能性があるものの、考え方としては環境を汚染させない考え方である。一方後者は、人への影響がほとんどないのであれば環境を汚染させても構わないという考え方だ。
 もし、どちらの考え方でも実現可能な方法があるなら、環境を汚染させない方がよいに決まっているだろう。しかも、環境を汚染させないのならば、国内や外国から懸念を抱かれこともない。しかし、人類が色んなもので環境を汚染させてきたことでもわかるように、不要で有害なものは環境に放出するのが簡単なため、環境に放出しない方法はなかなか開発出来てこなかった。今後、人類が原子力発電のような通常でも少量に事故時は多量に放射性物質を生み出す技術を使い続けるのであれば、放射性物質を環境に放出しない方法を開発してゆく必要があると思う。なぜなら、地球環境は閉じられた有限の領域であり、有害物質を消滅するより早い速度で環境に放出すれば、環境中の有害物質の濃度はだんだん大きくなり、やがて人間に影響を及ぼすようになるのだから。
 福島第一原発の処理水の処分方法として、地層注入や地下埋設の方法が現実的に実施できるかどうかは私には分からないが、このようなことを考えた。

 

 考えたことは他にもあるので、それも書いておく。

 

 ALPS小委員会が処理水の処分方法を絞り込む時に、「実績」や「前例」を理由に挙げているが、「実績」や「前例」があるということは実施しやすいということに過ぎず、それが良いかどうかは別の話だろう。にも拘わらず、これを理由に挙げているのは、出来るだけ良い方法を見つけようというより、出来るだけ簡単な方法で済まそうとしているように思えてならない。さらに、通常の運転時と同じ方法でかつ同じ濃度の放出であっても、事故による放射性物質の放出は通常の運転時の放出とは人の心理的影響が全く違うだろうということも考えた。やっぱり、「技術的には」と書いてあるのは、風評を含めた国内外の懸念を考慮しないということなんだなと思った。

 

 また、ロンドン条約海上からの放射性廃棄物の海洋投棄は禁じられていて、日本の原子炉等規制法でも認められていないということを知って驚いた。海上からの投機はダメで、陸上から海底トンネルを使って沖合まで移送して放出すること(今回の海洋放出の方法)はOKだなんて、なんという抜け道か。

 

 政府は、このALPS小委員会の報告を受けて、処理水の処分方法を海洋放出に決定した。これは2021年4月のことである。この時、海洋放出の実施は約2年後としていたので、今回の海洋放出開始はその時の方針に沿ったものだ。

 

●中国の日本産水産物の輸入全面停止について
 中国が8月24日に発表した輸入停止措置の文書は「税関総署公告2023年第103号」というもので、原文はもちろん中国語なので機械翻訳してみると次の内容だった。

 

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日本の福島からの核汚染水の排出によって引き起こされる放射能汚染のリスクを食品安全、中国の消費者の健康を保護し、輸入食品の安全を確保するために、中華人民共和国食品安全法およびその施行規則、中華人民共和国の輸出入食品安全管理措置の関連規定、および世界貿易機関の衛生植物検疫措置の実施に関する協定の関連規定に従い、 税関総署は、2023年8月24日(両日を含む)より、日本原産の水産物(食用水生動物を含む)の輸入を全面的に停止することを決定しました。
=======================================

 

 機械翻訳なので日本語としておかしいところもあるが、意味するところは大体わかる。「日本原産の水産物(食用水生動物を含む)の輸入を全面的に停止する」という措置を取った理由として、「核汚染水の排出によって引き起こされる放射能汚染のリスク」に関して「中国の消費者の健康を保護し、輸入食品の安全を確保するため」と書いてある。汚染水と言ったって基準値以下だしIAEAも安全性を認めているのに、とんでもない言いがかりだ、と反発するのは日本人としては当然なのですが、私は世界貿易機関(WTO)の「規定に従い」というところに注目しました。

 

 中国のこの措置って、本当にWTOで許されていることなの?、という疑問が起きたのです。もし許されているなら、気に入らないけれど文句は言えないなと思ったわけです。それで、WTOの「関税及び貿易に関する一般協定」に当たってみた。すると、第11条に次の規定があった。

 

====第11条 数量制限の一般的廃止====================
締約国は、他の締約国の領域の産品の輸入について、又は他の締約国の領域に仕向けられる産品の輸出若しくは輸出のための販売について、割当によると、輸入又は輸出の許可によると、その他の措置によるとを問わず、関税その他の課徴金以外のいかなる禁止又は制限も新設し、又は維持してはならない。
=======================================

 

 この規定は、要するに、輸入も輸出も数量制限を行ってはならない、ということです。輸入停止は数量を0に制限することですからダメということです。しかし、これは第11条の第1項で、すぐあとの第2項に「前項の規定は、次のものには適用しない」として例外がいっぱい書いてあるのです。実は他の条文のところにも数量制限禁止の例外が色々書かれていることが分かった。それらの例外に当てはまるかを検討するのは大変なのでやめました。


 細かい検討をやめたのは、日本だっていっぱい輸出制限をしているし場合によっては輸入制限だってしていることに気付いたからです。だからきっと例外というか抜け道が沢山あって、どの国も色んな理由を付けて輸出入制限をしているのが現状だと思ったわけです。実際、日本も経済制裁としてロシア対する輸出や輸入の禁止措置を行っているし、中国に対しても政治的な理由で輸出制限している品目がいっぱいある。WTOの規定では第21条に「安全保障のための例外」があって、日本の輸出制限はこれに基づいて行われていると思いますが、本当は安全保障というよりも政治的な理由でしょう。

 

 ここまで考えたら、今回の中国の輸入全面停止も表面上は食品の安全性を理由にしているが、本当の理由は政治的なところにあると考えるべきだと思いました。政治的な理由とはどういう意味か。それは相手国の行動が気に入らない時に、輸出や輸入に制限をかけることにより相手国を困らせるということです。中国は日本の何が気に入らないのか。これは考えるまでもなく明白でしょう。

 日本は昨年来、それまで以上に中国を敵視し、「反撃能力」として日本列島にトマホークを400発も並べたり、台湾有事を声高に言い立てたりしているのですから、中国が反発しない方がおかしいくらいだと思います。

 

 中国は日本の貿易相手国として輸出輸入ともに第1位です。日本の防衛を言う時に、輸出入への影響とそれによる経済や国民生活の困難を全く考えていないとすれば、そんなものは防衛政策と言えません。


 輸出入制限により相手国に圧力をかける時には、相手経済への影響と自国経済への影響とを秤にかけて判断するでしょう。今回の措置は、日本が受けるダメージに比べて中国自身のダメージが少ないと中国が判断したから実行したのだろうと思う。中国への影響も非常に大きい措置、例えば日本からの輸入をすべて止めるなどということは起こらないと思うが、中国自身への影響が比較的少ない輸出入の制限は今後も別の品目で行われる可能性があると考えた方がよいかもしれません。

 

●政府の対応への批判について
 政府の対応についての野党の批判は、主に「関係者の理解なしに、いかなる処分も行わない」との約束が守られていないことに焦点があるように思います。これは重大なことだ私も思います。また、市民活動家や環境保護団体からは海洋放出という方法への批判もあります。これについては、納得できる他の方法が私には考えられませんでした。しかし、私はこれらと違う観点からも考えました。

 

 先ず、処理水の処分方法の検討を、中国の研究者等を含む国際的な枠組みで行うべきだったと思いました。これはかなりの理想論です。しかし、今や多くの科学技術分野で中国の研究者は世界のトップクラスですし、処分方法によって多くの国が影響を受ける国際的な問題であるので、このような枠組みで検討することに意味があると私は思います。処分方法の検討には、技術的問題以外にコストも問題もあります。他国が安心できる方法を実施するための、コスト負担を他国にも求めることだってできるかもしれません。もし、そこで技術的検討により環境への負荷を抑えられる新しい方法が見つかれば、人類全体の利益にもなるでしょう。と、こんなことも考えましたが、これは政府批判というより、私の夢かもしれません。

 

 私の政府批判は次の2つです。

1.最終的に海洋放出を決める前に、なぜ中国等の反発が予想される国と相手の言い分を聞き、日本の事情も話した上で解決策や妥協案を探る外交交渉を何もしなかったのか。単にIAEAも使って、安全だと一方的に言っていただけではないか。
2.海洋放出を実施する時に、中国等の反発が予想されたので、当然その影響を考えたはずである(考えてなければ論外)。しかし、その想定は全く外れていたと思われる。従って、正確な判断が出来ていなかったということだ。事前に何のさぐりも入れていなかったのか。


●政府批判に対する批判について
 コメンテーターとかインフルエンサーとか呼ばれる人が、政府批判をする人を批判する言説をいくつか目にした。しかし、それらは私が調べて検討した程度のことも全くしていないようなコメントに思えて仕方なかった。そういう人たちのコメントに反応するよりも重要なことは、自分で調べて自分で考えることだと、改めて思った。

 

●最後に

 海洋放出後のリチウムの生物食物連鎖による濃縮や、内部被ばくでは弱いβ線でも問題になることなど、書きたかったことは他にもあるが、あまりにも長くなったので、ここで終わりにします。

 

 もし、この記事を読まれた方がいらっしゃれば心から感謝します。ありがとうございました。

「無知は罪」か?

 ある人の話を聞いていると「無知は罪」といいう言葉が出てきた。正直に白状すると、無知な私はこの言葉が有名であることを知らなかった。ソクラテスの言葉だという。この言葉には続きがあって、「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」というのが全体らしい。ソクラテスと言えば、「無知の知」ということは知っていたので、「知は空虚なり」はこれとの関連で何となくわかるような気もする。しかし、「英知持つもの英雄なり」というのはわからない。いろいろな説明があるようだが、出来れば自分なりに考えてみたい。と言っても、全部は荷が重いので、今回は「無知は罪なり」だけ。しかも、ソクラテスがどういう意図で言っているのかは別にして、現在の日本で日本語として使われている「無知は罪」という言葉について考えたい。

 

 まず、「無知は罪」を、「成功するには知識がないとダメですよ」と言いたいために引用している人がかなりいて驚いた。それって、「無知は損」ってことでしょ。これは論外。それから、「無知は罪」を宗教的に考えることも(それに意味がないとは思わないが)、今の私の関心ではない。社会的な意味で「無知は罪」ということを考える。

 

 「無知」とは「知らないこと」だ。知らないことは罪なのか? 「無知は罪」という言葉は強いか弱いかは別にして非難の意図をもって使われていると思う。しかし、少なくとも私は、人が何かを知らないというだけでその人を非難したい気にはならない。そう考えると、「無知は罪」という言葉は、「知らないこと」を責めているのではなく、「知ろうとしないこと」を難じている言葉なのではないかと思った。

 

 それでは、知ろうとしないことは罪か? 知ろうとしたり知ろうとしなかったりは、その人の自由であるはずだ。人には自由に行動する権利がある。但し、他人に迷惑を掛けない限り(法律ではよく「公共の福祉に反しない限り」とか書いてある)。従って、人が知ろうとしないことが他人の迷惑になるという場合にのみ、それが非難に値すること(=罪)になるのだ。それはどんな場合だろう。


 人が法律やルールやマナーを知らない場合には何らの悪意もなく人に迷惑をかけてしまうことが起こる。この場合、知らなかったことは言い訳に過ぎず、知ろうとしなかったことは非難されるべきだろう。すぐに思い浮かぶのは何かをしたことによる迷惑だが、何かをすべきなのにしなかったことによる迷惑だってある。また、迷惑をかけるのが特定の人ではなく、人の集団としての社会という場合も考えられる。

 

 ここまで来てようやく、冒頭に書いた「ある人」が「無知は罪」と言っていたのは、社会的な問題についてだったことに繋がった。
 社会的な問題とは、大多数の人や弱い立場の人が困った状態にあったりそうなりそうな状態にあったりすることだ。特に大多数の人が困ることは、本来なら困らないようにしたいと大多数の人が考えて何かをしたり何かをしなかったりするはずだ(少数の弱い立場の人が困ることについては倫理観があればそうなる)。しかし、自分も含まれる大多数の困りごとについて、無関心で何もせず、むしろ困りごとを作り出すものの手助けをしたりする人がいる。そういう人が沢山いると、困りごとはなかなかなくならない。何故、そういう人がいるのか? それは、困った状態にあることやそれを作り出すものについて知らないし、知ろうとしないからだ。という風に考えて、「無知は罪」(知ろうとしないことは罪)という言い方が出てくるのだろう。

 

 ここで私は、社会的な問題について「知ろうとしないことは罪」と非難する前に、人々は何故知ろうとしないのかを考えてみたくなった。
 一般的に言って、人が何かをするためには、そのことをする「意思」と、そのことが出来る「能力」と、そのことをするための「資源」(重要な資源はお金と時間)が必要だ。人が知ろうとしないのは、知ることについての「意思」、「能力」、「資源」のうちの1つか2つか全部が欠けているからだろう。

 

 遠い昔は、社会を支配する人たちは、支配される人たちを知る能力を持たない状態に置いて来た(例えば文字を読めない人が大多数だったりした)。また、知るためには今よりずっと多くの資源(お金と時間)が必要だったが、支配される人たちはその資源をほとんど持っていなかった。しかし、現在では大多数の人が知るための能力を持っているし、知るために必要なお金がないということもないだろう。従って、人が知ろうとしないのは、知る意思がないか知ることに割ける時間がないということだ。時間については、たしかに皆んな忙しくしていて充分な時間がないということは分かる。しかし、自由にできる時間が全くないわけではなく、多くの人が残った自由な時間も社会に目を向けさせない娯楽などに使っている(使わされている)のではないだろうか。なので、全く時間がないということはないと思う。だから、最大の原因は知る意思がないということだろう。

 

 多くの人々が、自分にも影響が及んでいる社会的な事柄について知る気(意思)がない、というのは何故だろうか。それはこういう理由だと、言うことは私にはできない。しかし、多くの人々がそうなるように仕向けられている気がしてならない。そう考えると、知る気(意思)がない人に対して、知ろうとしないことは罪(「無知は罪」)と非難することが出来るだろうか。

 

 現在のことを念頭に書いてきたが、このことを考えると、日本のほぼ全員が耐え難い苦難に見舞われた戦争のことを思わざるを得ない。敗戦のあと、多くの人が「知らなかった」、「騙されていた」と言い合ったという。その人たちを「知ろうとしなかった」と非難できるだろうか。戦前の社会は、いろんな仕組みで人々が知ろうとしないようになっていたように思う。そして、今また同じような状況になってきているのではないかと思ってしまった。